塚穴古墳(来目皇子埴生崗上墓) | 悲運の皇子 来目皇子の墓 ぶら古墳 Vol. 3 〜羽曳野市〜
南河内にある古墳を紹介していく「ぶら古墳シリーズ」。第3回は羽曳野市にある「塚穴古墳」です。
塚穴古墳とは
宮内庁名では来目皇子埴生崗上墓とも言われ「くめのみこはにゅうのおかのえのはか」と読みます。難読名の多い古墳ですが、これを一発で読める人は少ないでしょうか…ちなみに河内長野市にも塚穴古墳という同じ名前の古墳が存在します。
塚穴古墳は羽曳野市のほぼ中央部にある羽曳野丘陵に位置する一辺53m、高さ10mの方墳。宮内庁により用明天皇の息子、聖徳太子の弟である「来目皇子」の墓と比定されています。
宮内庁が比定する埋葬者は古墳の築造時期と合わないものがいくつかあります。しかし塚穴古墳に関しては日本書紀と一致する所が多く、埋葬者は来目皇子で間違いないのではないかと言われています。
7世紀初めに築造されたと考えられ、発掘調査により大規模な外堀と巨大な土手が存在したことが分かっています。調査によると南側の土手は高さ2.5m、幅が16m。北側の土手に至っては高さ3m、幅はなんと38mもあったそうです。
そこから考えられる当時の全長は一辺130m。全国の古墳規模からすると特別大きい訳ではありませんが、終末古墳の中では「用明天皇陵(春日向山古墳)」や「聖徳太子廟(叡福寺北古墳)」も上回る規模になります。
この規模から塚穴古墳にはかなり高位の人物が埋葬されていることが裏付けられます。
来目皇子とは
来目皇子は朝鮮半島と関わりがあります。朝鮮半島では長年、高句麗、新羅、百済の三国が激しく争っていました。六世紀後半には日本が影響を及ぼしていた加羅や任那は新羅の侵攻により占領されます。
この頃、中国では隋は中国を統一し。高句麗に遠征し大敗北を喫しています。日本は数度の遣隋使を派遣したり、朝鮮半島へ出兵するなどしています。
朝鮮半島は高句麗、新羅、百済がそれぞれ覇を競い、中国、日本は朝鮮半島へ影響力の浸透を図っていました。
そうした情勢の下、勢力を伸ばしてきた新羅を警戒した百済は高句麗、倭国と連携し新羅に対抗。602年に征新羅大将軍として新羅遠征軍を率いたのが、来目皇子でした。
2万5千の兵を率いて出陣した来目皇子ですが、現在の福岡にあたる筑紫において病に倒れてしまいます。翌603年に死去し、土師一族である土師猪手により今の山口にあたる周防にて葬儀が行われています。
ちなみにこの土師猪手は来目皇子からみると甥にあたる聖徳太子の息子、山背大兄王襲撃事件にかかわり、山背大兄王側の反撃で討ち死にしています。
来目皇子の末裔は登美氏と名を改め、聖徳太子ゆかりの法隆寺を管理をしていましたが、寺の財産を私物化して訴えられ、すったもんだがあって失脚しています。(善愷訴訟事件)
現在の塚穴古墳
塚穴古墳は少々わかりにくい場所にあります。塚穴古墳の北、西、南は宗教施設になっており、立ち入ることができません。
東はほとんどをマンションでふさがれており、古墳へ通じる入口が小さいため車で走っているとかなりの確率で見落としてしまいます。
宮内庁管理のため当然中に入ることもできません。周囲を一周することもできないため1方向からしか近くで見ることが出来ません。南河内の古墳は住宅地に囲まれている古墳が多いですが、塚穴古墳はTOPレベルで全体を把握しにくい古墳かもしれません。もう少しなんとかならないかなと思いますが、なんともならなさそうですね・・・
アクセス
最寄駅は近鉄南大阪線の古市駅か藤井寺駅になります。徒歩の場合古市駅からだと約20分、藤井寺駅からだと約40分ほどかかります。一番良いアクセスは、藤井寺駅から羽曳が丘方面に向かう近鉄バスに乗り、府立医療センター前下車が一番最寄になります。
塚穴古墳周辺の見所として、北側に聖徳太子ゆかりの野中寺、野々上八幡神社。西には峯ガ塚古墳、北東には仁賢天皇陵などが存在します。
塚穴古墳の近くに駐車場は見当たりませんが、峯ガ塚古墳がある峰塚公園には有料の駐車場があります。そこから峯ガ塚古墳~仁賢天皇陵~野中寺~塚穴古墳というコースならブラブラと南河内の歴史を堪能できるのではないでしょうか。
塚穴古墳(来目皇子埴生崗上墓)データ
別 名:来目皇子埴生崗上墓
墳 形:方墳
築造の時期:7世紀初め
所 在 地:大阪府羽曳野市はびきの3丁目
全 長:53m
高 さ:10m
埋 葬:来目皇子
埋葬の施設:横穴式石室
古墳内立入:不可