木沢長政 | 早すぎた下克上!天下を取り損ねた男 南河内武将ファイルvol.1

南河内に縁のある武将を紹介する「南河内武将ファイル」。第1回は「木沢長政」を紹介します。

木沢長政と言っても戦国好きでなければあまり聞き慣れない名前かもしれません。しかし木沢長政は南河内のみならず近畿の戦国時代において外せない重要人物の一人でした。

16世紀中頃の近畿は権謀術数が入り乱れる、壮絶な勢力争いが繰り広げられていました。その中で木沢長政は畠山家の一家臣でありながら主君を凌ぐ権力を手に入れます。




近畿において下克上と言えば、三好長慶や松永久秀が有名ですが、木沢長政はそれよりも早く下克上に挑んだ武将でした。

木沢長政は河内守護の家臣という事で南河内にもゆかりの深い人物です。今回はそんな波乱に満ちた木沢長政を紹介したいと思います。

近畿における勢力

近畿の戦国時代が地方と少し異なるのは、強い影響力を持つ将軍や管領が近くにいる点です。また、複数の宗教勢力が近畿に本拠地にしている事も複雑にしています。

主な勢力と人物
【将 軍】足利義晴 権威の象徴。しかし実権と独自の軍事力がほぼない。
【管 領】細川晴元 権威と実権もあったが、将軍とセットでなければ発揮できない。
【守 護】権威と実権が維持できるかは当主の実力次第。国人達を動員できる。
山城、摂津、丹波…細川晴元
河内…総州畠山家と尾州畠山家に分裂して定まらず
大和…守護はいないが、興福寺が実質守護。しかし大和全域には影響力は及ばない。
紀伊…畠山氏が守護。尾州畠山家が強い影響力を持つ。
和泉…細川家の分家が守護。存在感は低い
【守護代】守護の下で政治行ったり、国人達を直接指揮する。国におけるNo.2
【国 人】直接土地を支配している有力者。戦争における兵力の中心。
【一向宗】京の山科に本拠地があったが、法華宗との争いに敗れ大阪の石山に本拠地を移す。
【法華宗】同じく京に本拠地を持つ。武士などに信者を多く持つ。
【興福寺】実質、大和の守護を担い、国人に強い影響力を持つ。
【延暦寺】近江比叡山を本拠地にもつ一大勢力。
【根来衆、高野山】紀伊を本拠地とする一大勢力。尾州畠山家や国人との結びつきが強い。

守護 畠山家の分裂

1382年に畠山基国が河内の守護に命じられて以降、畠山家が河内を支配します。畠山家の先祖は将軍家と先祖を同じとする一族で、幕府におけるNo.2「管領」に就ける高い家柄でした。

しかし14世紀中頃に、家督を巡り畠山義就と畠山政長による内紛が勃発。家督争いはやがて11年間も全国を大混乱に陥れる「応仁の乱」へと発展します。応仁の乱が終結しても畠山家の内紛は収まらず、畠山義就は「畠山総州家」、畠山政長は「畠山尾州家」として分裂。河内守護を巡る争いは彼らの子、孫、ひ孫まで続きます。

主君への裏切り

木沢家は「畠山総州家」に仕える家柄でした。しかし家中において高い身分ではなく、一家臣に過ぎない木沢長政がどのようにして畠山義堯の元で出世したか詳しくはわかっていません。ただ、管領をめぐる細川家の内紛で京の守備を任されていた事から、かなり重用されていたことがうかがえます。

木沢長政が台頭してきた頃の相関図

細川晴元は宿敵である細川高国を打倒し、念願の管領に就任します。しかし細川晴元は細川高国打倒に貢献した三好元長、畠山義堯らと政権運営を巡り対立。その中で木沢長政は、畠山家の家臣にも関わらず独自に細川晴元に接近し、畠山義堯との関係は悪化します。

細川家での地位向上を狙う木沢長政は、目障りな三好元長の失脚を画策し細川晴元に讒言します。細川晴元と三好元長との仲は更に悪化しますが、この件で木沢長政は三好元長とも対立。ついに畠山義堯、三好元長は連合を組んで木沢長政の排除を試みます。

何度かの小競り合いの後、1532年に畠山・三好連合軍は木沢長政の居城「飯盛城」を包囲。「飯盛城の戦い」が始まります。数に劣る木沢長政は劣勢に陥りますが、三好、畠山の勢力が強大化すること恐れた細川晴元は、一向宗を束ねる「本願寺」へ協力を取り付けます。




三好元長は法華宗の信者であり、その庇護者だった事が本願寺にとって目障りだった事が参戦の理由と考えられています。政権内の権力争いは宗教も巻き込んだ争いへと発展する事に。

本願寺は、摂津、河内、和泉から数万もの一向一揆を動員。飯盛城を包囲していた三好・畠山連合軍の背後を襲います。突然大軍に襲われた畠山・三好連合軍は大混乱に陥り、畠山義堯は自害。三好元長も和泉の顕本寺まで逃げ延びますが、一向一揆に包囲され自害に追い込まれます。

木沢長政は邪魔者を排除することに成功し、細川晴元の下で権力手中に収めていきます。

本願寺への裏切り

本願寺の支援により窮地を脱した木沢長政でしたが、今度は一向一揆に問題が出てきました。法華宗庇護者の三好元長を倒した一向一揆は宗教戦争の色合いを強めます。暴走した一向一揆は、大和の興福寺を攻撃。大きな被害を被りますが、大和の国人達によりなんとか大和から追い出します。

暴走した一向一揆に手を焼いた細川晴元は、一揆制圧を木沢長政に命じます。木沢長政は、京都の法華宗を煽って法華一揆を起こし一向一揆と対立させます。法華一揆に近江守護、六角軍を合わせた連合軍は一向一揆と激突。連合軍側が勝利し、一向一揆を壊滅させる事に成功します。

勝利した法華宗も後に延暦寺との勢力争いに敗れ、京都から排除されます。こうして木沢長政は権謀術数を使い邪魔者を排除してゆきます。

三好長慶の登場

三好元長の子である三好長慶は摂津に上陸し、父の仇である細川晴元と対立していました。そこで1534年、木沢長政の仲介で三好長慶は細川晴元の配下とする事に成功します。

三好長慶からすれば、細川晴元、木沢長政、一向一揆は父の仇にあたります。これは若く優秀な三好長慶を利用したい木沢長政と、仇を討つ為に力をつけたい三好長慶の思惑が一致したからかもしれません。

三好長慶
作者 投稿者がファイル作成 (ブレイズマン 05:37, 23 March 2008 (UTC)) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

両畠山家の掌握

細川晴元の下で大きな影響力を持ち始めた木沢長政は河内支配にも手を伸ばします。畠山義堯亡き後の「総州畠山家」は畠山在氏が当主に就いていました。しかし畠山在氏は飾り物で、守護代になった木沢長政が実権を握っていました。

南河内の高屋城を拠点とする「尾州畠山家」では当主、畠山稙長と守護代、遊佐長教が対立していました。1534年に遊佐長教は畠山稙長を紀伊に追放。その後、畠山弥九郎を当主に擁立します。

高屋城の戦い | 織田信長が羽曳野にやって来た!〜羽曳野市 高屋城(安閑天皇陵)〜


木沢長政と遊佐長教は「総州畠山家」「尾州畠山家」を和解させ河内を半国ずつ支配する体制を確立します。もちろん、畠山両当主は飾り物で、実権は木沢長政と遊佐長教が握っていました。

これにより木沢長政は河内の広い範囲に影響力を及ぼす事に成功します。さらに大和、河内の国境に信貴山城と二上山城を築城。大和での影響力拡大を図ります。この頃が木沢長政にとって権力の絶頂でした。

暗 雲

勢いに乗っていた木沢長政ですが、徐々に歯車が狂い始めます。キッカケは1541年8月に細川晴元の命で、三好長慶が摂津の塩川政年を討伐に向かった事件でした。この討伐を警戒した摂津の国人達は木沢長政に塩川政年への援軍を要請。木沢長政はこれを了承し、三好長慶へ兵を差し向けます。

塩川政年の籠もる「一庫城」を包囲していた三好長慶ですが、木沢長政が迫まると危険を察した三好長慶は越水城に撤退します。

三好長慶は細川晴元の家臣として徐々に勢力を強めていました。その力は木沢長政を警戒させた為、三好長慶の力を削ぐ計画だったのかもしれません。

ちなみに、三好長慶を追い払った後、塩川政年や摂津の国人達は細川晴元と和解。木沢長政は完全にハシゴを外されてしまいます。

この一件により細川晴元との関係は決裂。木沢長政は細川晴元と将軍、足利義晴の身柄を確保するために京へ攻め上ります。しかし両者は逃亡した為、木沢長政は河内に引き上げます。その結果、木沢長政は幕府の逆賊となってしまいました。

太平寺の戦い そして滅亡

1541年12月、体勢を立て直した細川晴元は木沢長政討伐の兵を動かします。木沢長政も迎撃に向かい、両軍は淀川を挟みにらみ合いに。

年を越えて1542年3月、河内の不安定化を危惧した「尾州畠山家」守護代、遊佐長教は木沢長政の排除に動きます。遊佐長教は機を見計らい高屋城にいる木沢長政派の家臣を粛正、畠山弥九郎は信貴山城へ逃亡します。(高屋城から逃亡したのは畠山弥九郎ではなく、畠山政国という説もありますが、この時期の尾州畠山家は混乱して実際の不明なので便宜上、畠山弥九郎としておきます)

遊佐長教は紀伊に追放していた畠山稙長と密かに和解。畠山稙長は紀伊から根来衆、国人1万の軍勢を引き連れ高屋城に入城します。

高屋城の政変に驚いた木沢長政は急ぎ二上山城へ撤退。高屋城は二上山城と信貴山城の間にあり、信貴山城に入った畠山弥九郎と連携を目論みます。

木沢長政は高屋城へ偵察部隊を送りますが、遊佐軍と戦闘に発展。その様子を見た木沢長政は自軍の不利を感じ、3000の兵を二上山城へ残し、約7000の兵で北へ向かいます。

北には畠山弥九郎が信貴山城に、その更に北には主君、畠山在氏が飯盛城を守っていました。畠山弥九郎、畠山在氏の軍と合流する事でこの戦いを有利に進めようと考えます。

北上する木沢軍は大和川と石川が合流する地点で、追撃する遊佐軍と激突。激しい戦いが繰り広げられる中、北から押し寄せる一軍が現れます。木沢長政を援護する畠山弥九郎の登場と思いきや、実は三好長慶が率いる部隊だったのです。

三好長慶にとって木沢長政は父を自害に追いやった仇の一人。木沢軍の側面に猛烈な攻撃を与えると、大混乱に陥り潰走を始めます。敗北を悟った木沢長政は北へ逃走。しかし遊佐・三好連合軍の追撃は激しく、木沢長政は遂に遊佐軍によって討ち取られてしまいます。この戦いは柏原市の太平寺付近で行われた事から「太平寺の戦い」と呼ばれています。

木沢長政
太平寺の近くにある石神社

近畿で天下に一番近かった男は、たった一度の敗戦で、全てを無くしてしまったのです。10年以上近畿で大きな影響力を誇っていた木沢長政の死は大きく、近畿の混迷はさらに深まっていきます。

まとめ

現在の太平寺は廃寺となっており地名だけが残っています。その太平寺地区にある共同墓地には木沢長政の墓とされる五輪塔が残されています。案内板によれば、この五輪塔は太平寺の北の外れにある「キソドノ墓」「喜増土ノ墓」と呼ばれる地にあったそうです。木沢長政

権謀術数を駆使し、守護をも上回る権勢を手に入れた木沢長政も逆賊として最後を迎えました。しかし逆賊とされながらも地元から墓が残されると言うことは、家臣や領民からは人望のある人として親しまれていたのかもしれません。