太子西山古墳(敏達天皇陵) | 天皇陵最後の前方後円墳 ぶら古墳 Vol.44 〜太子町 磯長谷古墳群〜

太子西山古墳(敏達天皇陵)南河内の古墳を紹介する「ぶら古墳シリーズ」第44回は太子町にある「太子西山古墳(敏達天皇陵)」です。聖徳太子や推古天皇など飛鳥時代に活躍した人物が多く祭られている「磯長谷古墳群」の一つ。



敏達天皇とは

宮内庁の比定によると埋葬者は第30代天皇「敏達天皇」。敏達天皇の父は欽明天皇、兄弟に用明天皇、推古天皇、崇峻天皇が存在します。

父の欽明天皇の時代に仏教が伝来。その結果、有力豪族間で仏教を取り入れる「崇仏派」と、日本古来の神々を崇める「廃仏派」による対立が激しくなっていました。




敏達天皇の時代における崇仏派の筆頭は「蘇我馬子」、廃仏派の筆頭は「物部守屋」。蘇我氏も物部氏は皇室に后を送ることができる有力豪族であり、ライバル関係でした。

物部守屋
八尾市にある物部守屋の墓

敏達天皇はどちらかと言うと廃仏派だったと言われています。蘇我馬子が寺院を建立すると、同じタイミングで疫病が流行。それをみた物部守屋は天皇に働きかけると、仏教を禁止し寺院を破壊したと言われています。

ただ、仏教を迫害した年に敏達天皇も病にかかり、そのまま崩御。次代天皇には異母兄弟の用明天皇が即位します。ちなみに聖徳太子は用明天皇の息子になるため、敏達天皇からみると聖徳太子は甥にあたります。

太子西山古墳(敏達天皇陵)とは

太子西山古墳の墳丘の長さは113m、高さは不明の前方後円墳。太子西山古墳は敏達天皇の陵とされていますが、同時に母である「石姫皇女」も祭られる合葬陵とされています。前方後円墳

築造時期は古墳時代後期前半と、少し曖昧な時代設定となっています。磯長谷古墳群が築造された時期は古墳が小型化する傾向にありました。

そんな中で、敏達天皇陵は天皇陵として造築された最後の前方後円墳とされます。また、磯長谷古墳群においては唯一の前方後円墳として異色の存在感をしめしています。




墳丘は2段築成で空濠が存在し、周辺で埴輪の破片が見つかっています。宮内庁管理のため調査がおこなわれておらず詳細はわかっていませんが、埋葬施設は横穴式石室ではないかと考えられています。

すぐ近くに「伽山古墳(墳墓)」が存在しますが、築造時期が異なるために陪塚関係にはないと思われます。

現在の太子西山古墳(敏達天皇陵)

敏達天皇陵の周辺は丘陵地帯となっています。古墳は丘陵地帯の少し入った場所に存在するため、近くを通ってもそこに古墳があるとは気づかないかもしれません。木々に囲まれすぎて、周囲を歩く道がないので古墳全体の姿をを見ることは出来ません。

道路からは鬱蒼とした森にしか見えませんが、木々に挟まれた狭い道を登ると「パーッ」と開けた場所が現れます。太子西山古墳(敏達天皇陵)

開けた場所にはミカン畑やいくつかの会社があり、その間に「敏達天皇河内磯長中尾陵参道」と彫られた石碑が建てられています。太子西山古墳(敏達天皇陵)

参道の脇にあるミカン畑を眺めながら細い参道を進んでいくと、再び木々に囲まれた神聖な雰囲気に変わります。太子西山古墳(敏達天皇陵)参道を抜けると遥拝所が現れ、人がおらず静まり返った雰囲気に少しピリッとした空気を感じます。太子西山古墳(敏達天皇陵)

南河内にある天皇陵はほぼ街中に存在するため、このように木々に囲まれた遥拝所は珍しいのではないでしょうか。敏達天皇陵は数ある南河内の天皇陵でも少し異色の雰囲気を持つ天皇陵でした。

アクセスと周辺スポット

近鉄吉野線「上ノ太子駅」下車。金剛バス喜志循環線「上宮学園前」バス停より徒歩約5分。

太子西山古墳(敏達天皇陵)の周辺には聖徳太子の墓とされる叡福寺北古墳、春日向山古墳(用明天皇陵)、山田高塚古墳(推古天皇陵)、山田上ノ山古墳(孝徳天皇陵)が存在します。

聖徳太子廟(叡福寺北古墳) | 太子廟七不思議とは?ぶら古墳 Vol.15 〜太子町 叡福寺 墓 磯長谷古墳群〜


この4つの天皇陵と1つの墓は、梅の花びらになぞらえて「梅鉢御陵」とも総称されています。

太子西山古墳(敏達天皇陵)

古   墳:太子西山古墳
通   称:敏達天皇陵
宮内庁名称:河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)
墳   形:前方後円墳
築造の時期:古墳時代後期前半
所 在 地:大阪府南河内郡太子町大字太子
全   長:113m
高   さ:不明
埋   葬:敏達天皇
埋葬の施設:横穴式石室(?)