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烏帽子形八幡神社|城を守り続けた鎮守様【御朱印】~河内長野市~

烏帽子形八幡神社の本殿

南河内の神社を紹介する「となりの鎮守様」シリーズ。今回は、河内長野市喜多町にある「烏帽子形八幡神社(えぼしがたはちまんじんじゃ)」です。

烏帽子形山に鎮座する烏帽子形八幡神社は、烏帽子形山に築城された「烏帽子形城」と深い関係を持つといわれています。その関係とはどのようなものなのか?今回は、河内長野市喜多町にある「烏帽子形八幡神社」を紹介します。

烏帽子形八幡神社の創建

烏帽子形八幡神社は、河内長野駅から2kmほど南にある「烏帽子形山」に存在。烏帽子形山周辺は、堺と高野山を結ぶ「東高野街道」「西高野街道」が合流する交通の要衝として知られています。

長野神社

1331年、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の為に挙兵すると、南河内の豪族「楠木正成」も呼応。正成は、南河内にいくつか城を築き幕府軍の襲来に備えますが、その一つが烏帽子形城です。

烏帽子形城跡

交通の要衝である烏帽子形山築かれた烏帽子山城は、他に築城された6つの城と合わせて「楠木七城」の一つに数えられています。

烏帽子形城跡
山頂にある烏帽子形城跡

築城時、誰が城を守っていたかはよく分かっていません。他の城には、楠木家の縁者が配置されていたことから、楠木家に近い人物が城主だったと思われます。烏帽子形八幡神社は、烏帽子形城の城主が城の鎮守として創建したといわれています。

戦乱の烏帽子形八幡神社

鎌倉幕府が倒れた後も、南北朝の争いや応仁の乱が続き、烏帽子形城では攻防が繰り広げられました。兵火は烏帽子形八幡神社にもおよび、社殿は激しく荒廃したといわれています。

そのため1480年(文明12年)、河内石川源氏の末裔といわれる石川八郎左衛門尉が新たに社殿を建て直して再建。しかし畠山家の跡目争いや、三好家の河内侵攻などの兵乱が続き、烏帽子形八幡神社も再び荒廃することに。

甲斐庄正房による再興

江戸時代に入り大坂の陣が集結すると、烏帽子形八幡神社にもようやく平和が訪れます。烏帽子形城には、甲斐庄正房という人物が入り、錦織郡(河内長野市全域と富田林市の一部)を治めました。

甲斐荘(かいのしょう)氏は、楠木正成の弟「楠木正季」の末裔を称する一族で、長年にわたり烏帽子形城を治めていました。戦国時代に畠山家に属していた甲斐荘氏は、河内に侵攻してきた三好家と戦いに敗北し、烏帽子形城を奪われます。

本拠地を失った当主の甲斐庄正治と息子の正房は、徳川家に仕官。後に甲斐庄正房は、大坂の陣において案内役を果たす他、浪人の大坂城入城を阻止するなど、河内の土地勘を生かした功績をあげます。

大坂の夏陣図屏風
大坂の夏陣図屏風/Wikipediaより

その結果、甲斐庄正房は烏帽子形城と河内国錦部郡2000石が与えられ、かつての本拠地を奪還。のちの1617年(元和3年)、甲斐庄正治は、普請奉行として四天王寺を再建しています。

四天王寺
四天王寺

一方、居城の鎮守である烏帽子形八幡神社は、依然あれたままだったため、四天王寺再建に使った余材を利用して、烏帽子形八幡神社を改修。1622年(元和8年)に竣工し、ようやく落ち着きを取り戻しました。

その後の烏帽子形八幡神社

神社の境内には、徳寿院蒿福寺という天台宗の神宮寺がありましたが、明治の神仏分離令により廃寺。明治5年に村社に列し、1903年(明治40年)に、政府による神社合祀政策により、小塩八幡神社を合祀。

1940年(昭和15年)本殿が国宝に指定され、1950年(昭和25年)に重要文化財に指定。1966年(昭和41年)、本殿の荒廃すすんでいたため、解体修理を行っています。この解体修理の際に、棟札・棟束が発見され、1480年(文明12年)に修復が行われたことが判明。この修理で、建立当時の姿に復元されています。

烏帽子形八幡神社へ行ってきました

烏帽子形山には、神社の他に公園、城跡、古墳など見所が多いスポット。ただし、子供には神社、古墳、城跡がはなはだ不人気というのが、ツラいところ…今回は車で訪問し、烏帽子形八幡神社の駐車場に停めました。きれいに整備された駐車場で、案内板なども置かれています。

烏帽子形八幡神社の駐車場

駐車場の前を通る細い道が「高野街道」。昔は賑やかな街道だったのでしょうが、今では静かな小径となっています。

烏帽子形八幡神社前の高野街道

高野街道を挟んで向かい側が、烏帽子形八幡神社の入口になります。注連柱、狛犬、鳥居、灯篭という、神社造形物オールスーターな入口も珍しいかもしれません。

烏帽子形八幡神社の入口

鳥居をくぐると、なかなか急角度な階段が待ち受けています。

烏帽子形八幡神社の階段

階段の踊り場にある摂社「烏帽子形恵比須社」。この神社は、島根県の美保神社より事代主命を勧請して建てられたとのこと。

烏帽子形八幡神社の烏帽子形恵比寿社

こちらの神社では、1月6日に宵恵比須祭、7日に本恵比須祭が行われていますそして。急角度の階段を上りきると、立派な拝殿が存在。

烏帽子形八幡神社の拝殿
烏帽子形八幡神社の拝殿

拝殿を抜け、本殿の手前にある手水舎。立派な水盤をもちますが、屋根などがない珍しいタイプ。

烏帽子形八幡神社の手水舎

こちらが、烏帽子形八幡神社の本殿。入母屋造檜皮葺で国の重要文化財に指定されています。

烏帽子形八幡神社の本殿

祭神は、八幡神の「足仲彦命」「神功皇后」「応神天皇」の3柱と「素盞鳴命」。足仲彦命は、仲哀天皇のことで、応神天皇の父にあたります。神功皇后は、仲哀天皇の奥さんで、応神天皇の母。八幡神は、武運の神様として知られており、城の鎮守としてはふさわしい神様といえます。

本殿の斜め前にあるのが「楠公武威松」。楠木正成が、湊川の戦いに向かう前に、武運を祈願して植えた松と伝えられています。残念ながら1934年の台風で倒れてしまい、現在は一部が保存されています。

烏帽子形八幡神社の楠公武威松

こちらが、本殿の隣にある「比良野社」。京都の平野神社と関係があるのかもしれませんが詳細は不明。

烏帽子形八幡神社の比良野社

比良野神社の南側にある「烏帽子形稲荷社」。他にも白山社という摂社があるそうですが、今回はわかりませんでした。

烏帽子形八幡神社の烏帽子形稲荷社

神社の北側には社務所が存在。普段、宮司さんは常駐していないようですが、毎月1日と、毎週日曜日の午前中はいらっしゃるようで、お守りなども扱っているようです。

烏帽子形八幡神社のお守り

まとめ

烏帽子形公園の入口

鎌倉時代末期に楠木正成によって築城され、烏帽子形城の鎮守として600年以上の歴史を持つ烏帽子形八幡神社。烏帽子形城は、大規模な山城だったため維持が難しく1617年に廃城となりました。しかし、烏帽子形神社はその後も地元の氏神として、地域を見守っています。

御朱印

毎月1日と毎週日曜日の午前9時〜正午だけ社務所が空いていますので、御朱印をいただくことができます。

烏帽子形八幡神社
烏帽子形八幡神社の御朱印

烏帽子形八幡神社データ

住所大阪府河内長野市喜多町305
祭神素盞鳴命、足仲彦命、神功皇后、応神天皇
摂社白山社・平野社・烏帽子形稲荷社・恵比須社
旧社格村社
式内社なし
祭礼秋季大祭(10月第2土曜日)
恵比寿祭(1月6日・7日)
湯立神事(12月第2日曜日)
参考資料日本の史跡の宝庫 南河内

アクセスと駐車場

・公共交通機関
南海高野線もしくは近鉄長野線「河内長野駅」下車。駅前より三日市駅方面行きの南海バスに乗車。「郵便局前停留所」にて下車し徒歩約5分。

・自動車
烏帽子形八幡神社には無料の駐車場が完備されています。ただし、3台ほどのスペースしかないため、満車の場合は烏帽子形公園にも駐車場があるので、そこから徒歩でも近距離です。大阪狭山市方面から、国道310号線を南に進みます。左側に河内長野郵便局が見えてすぐの信号を右折。細い道を直進すると、正面に鳥居が見えてきます。突き当たりの、左角に烏帽子形八幡神社の駐車場が存在します。

周辺スポット

・烏帽子形城跡
烏帽子形八幡神社から徒歩5分ほどの場所にある城跡。楠木七城の一つである烏帽子形城が築かれていました。

・烏帽子形古墳
烏帽子形八幡神社から徒歩5分ほどの場所にある古墳。河内長野市に現存する数少ない古墳の一つとして知られています。

・長野神社
烏帽子形八幡神社から徒歩15分ほどの場所にある神社。大松明を盛大に燃やす「タイマツタテ神事」でしられています。

・加賀田神社
烏帽子形八幡神社から車で10分ほどの場所にある神社。再建された色鮮やかな本殿が見所の一つ。

・花の文化園
烏帽子形八幡神社から車で10分ほどの場所にある植物園。四季折々の花が鑑賞できるほか、巨大な植物園も見所の一つです。

・くろまろの郷
烏帽子形八幡神社から車で10分ほどの場所にある道の駅。地元の野菜や特産品を販売するほか、ビュフェやスイーツなども充実しています。奥河内観光の拠点として活用できます。

・河内長野市立ふるさと歴史学習館
烏帽子形八幡神社から車で10分ほどの場所にある資料館。河内長野市の歴史を学べるほか、勾玉づくりなど、体験メニューも楽しめます。

・大師山古墳跡
烏帽子形八幡神社から車で10分ほどの場所にある古墳。現在は消滅していますが、記念碑のみ残されています。

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