![](https://i0.wp.com/travel-minakawa.com/wp-content/uploads/2018/03/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E8%A1%8C%E5%83%8F%EF%BC%8F%E9%A3%AF%E7%9B%9B%E5%B1%B1%E5%9F%8E_-_panoramio.jpg?resize=640%2C434&ssl=1)
楠木正行像/飯盛山城 shikabane taro [CC BY 3.0 または Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
「小楠公」こと、楠木正行が4倍以上の幕府軍を藤井寺周辺で打ち破ったという「藤井寺合戦」があった事はあまり知られていません。
楠木正行はどのようにして幕府軍を打ち破ったのか?今回は藤井寺合戦とその後の楠木正行について紹介いたします。
旗掛けの松
藤井寺合戦が藤井寺のどのあたりであったのかは明確にはわかりませが、葛井寺の境内にその名残を残す「旗掛けの松」という松の木があります。
![旗掛けの松](https://i0.wp.com/travel-minakawa.com/wp-content/uploads/2018/03/P2173575.jpg?resize=600%2C800&ssl=1)
葛井寺の境内にある「旗掛けの松」
説明文によると
「1347年に境内松の樹に非理法権天の旗を掛け、楠木正成は正行、正時、正儀を呼び秘策を練り十倍の細川顕氏軍に大勝したという藤井寺合戦があった。これによりこの松は「旗掛けの松」と呼ばれるようになり、又この松からは珍しい三葉松が現れ、このことから三人が力を合わせ堅く一致団結すればどんな困難にも打ち勝つ不思議な力が授かるとも言われ、今も珍重されています」
と書かれています。
この説明文では楠木正成が細川顕氏と戦った事になってますが、正成は11年前の1336年に湊川の戦いで亡くなっているはずです…あれ……?あまり深くつっこまない事にします…
実際に楠木正成は優れた人物でしたが、明治時代以降、けっこう美化されているのでこう言う事もあるのかもしれませんね。
※2021年現在は、楠木正行の文章に修正されていました
別説として藤井寺の民話集にも似た話が残されています。楠木正行が葛井寺にある大きな松の木に旗をかけ軍を集結させる目印にしたと伝わっています。当時は葛井寺の周りはひらけており、松を遮るものもなくちょうどよい目印だったようです。
藤井寺合戦
ではなぜ藤井寺で合戦が行われたのでしょうか?この頃、楠木正行が属する南朝方は足利尊氏率いる幕府勢力に対して不利な状況でした。そんな中、楠木正行は父の意志を引き継ぎ、天王寺や住吉で幕府軍を相手にゲリラ戦を展開。放っておけないと考えた足利尊氏は、細川顕氏に命じて3000の兵を率いて楠木正行討伐を命じます。
河内にある正行の館を目指していた細川軍は、途中藤井寺にて休息をとります。正行の館までまだ24kmもあり、細川軍は油断していました。
そこへ誉田八幡宮の方から菊水の旗を掲げた正行率いる700の軍勢が完全武装で奇襲。どうやら、正行は相手が油断するのを見計らっていたようです。
![誉田八幡宮](https://i0.wp.com/travel-minakawa.com/wp-content/uploads/2018/03/P9250769.jpg?resize=596%2C447&ssl=1)
誉田八幡宮
数に勝る細川軍でしたが思わぬ攻撃に、討たれるもの、逃げる者が続出。細川軍は敗走を重ね、天王寺で体制を立て直すも、勢いに勝る正行軍に敵わず京に撤退します。こうして藤井寺の戦いで楠木正行は父の雪辱を果たしますが、この勝利は楠木正行の運命を変えることに…
四条畷の戦いへ
![四条畷の戦い(歌川国芳画)](https://i0.wp.com/travel-minakawa.com/wp-content/uploads/2018/03/The_last_stand_of_the_Kusunoki_at_Shijonawate-e1521813559825.jpg?resize=600%2C283&ssl=1)
四条畷の戦い(歌川国芳画)
局地戦で勝利を収めたものの南朝首脳に戦略的展望はなく、楠木正行の武勇をあてにしているだけでした。
南朝勢力の拡大を警戒した足利尊氏は、最も信頼している重臣の高師直に6万もの兵を与え、楠木正行と南朝討伐を命じます。
両軍は東大阪の四条畷で対峙しますが、迎え撃つ楠木正行はわずか3000。善戦するものの正面から戦えば兵力差はいかんともしがたく、最後は弟の楠木正時と差し違え自害。総崩れになった南朝は本拠地である吉野まで攻め落とされて、大敗北を喫します。
その後、楠木家は正行の弟である楠木正儀が跡を継ぎ、幕府との戦いを続けますが、劣勢は挽回できぬままやがて南北朝合体に向かっていきます。
かつての激戦の痕跡も、今は「旗掛けの松」が残るのみとなっています。葛井寺はこうした繋がりから、楠公史跡河南八勝のひとつともなっています。
まとめ
楠木正行は戦いに勝利し川に追い落とされた敵兵を救い、食べ物や衣服を与えて帰すというのエピソードがあるなど心の優しい優れた人格者でした。
足利尊氏の息子である足利義詮は敵将である楠木正行を慕っていました。義詮は自分が逝去したときは京都宝筐院にある楠木正行の墓の隣に弔って欲しいと遺言を残し、現在も二人は宝筐院でならんで眠っています。
アクセスと駐車場
最寄り駅は、近鉄南大阪線「藤井寺駅」下車。南側出口から線路沿いに東へ歩くと商店街があります。そこから商店街に沿って南に歩いていくと葛井寺の西門が見えます。
![葛井寺](https://i0.wp.com/travel-minakawa.com/wp-content/uploads/2019/02/IMG_20180702_062343.jpg?resize=600%2C450&ssl=1)
西門
ここからでも入ることはできますが、正面から参拝したい場合は更に南へ歩きます。1分程歩くと交差点があり、左に曲がると葛井寺の南大門になります。
![葛井寺 藤まつり](https://i0.wp.com/travel-minakawa.com/wp-content/uploads/2019/05/IMG_20190505_163416.jpg?resize=600%2C450&ssl=1)
南大門
葛井寺に専用駐車場はありません。南大門のすぐ南側に少し広めのコインパーキングが存在します。ただ、ここのコインパーキングへ通じる道は少し狭く、人通りも多いので注意が必要です。
狭い道が苦手という人は、葛井寺から5分程の場所に藤井寺市営駐車場やコインパーキングもあります。
紫雲山 葛井寺データ
住 所:大阪府藤井寺市藤井寺1丁目16番21号
駐車場:南側にコインパーキングあり
参拝時間:8:00~17:00
アクセス:近鉄南大阪線藤井寺駅下車、徒歩5分
山号:紫雲山
宗派:真言宗御室派
本尊:十一面千手千眼観世音菩薩
開祖:行基(寺伝)
札所:西国三十三所第五番
河内西国三十三所特別客番
神仏霊場巡拝の道 第59番
楠公史跡河南八勝
文化財:
【国宝】乾漆千手観音坐像(本堂安置)※拝観料500円(毎月18日)
【重要文化財】葛井寺四脚門(切妻造、本瓦葺)
【府指定文化財】石造灯籠・金銅宝塔
【市指定文化財】聖観音菩薩立像・地蔵菩薩立像