南河内の神社を紹介する「となりの鎮守様シリーズ」。今回は堺市美原区多治井にある「丹比神社(たんぴじんじゃ)」です。
丹比神社は、延喜式神名帳にも記載された由緒ある神社です。また反正天皇ゆかりの神社としても知られており、境内には反正天皇にまつわる遺構がいくつか存在します。
丹比神社の創建には謎も残されていますが、丹比を本拠地とした豪族や貴族が大きく関わっていました。丹比神社にある反正天皇の遺構と、創建とはどんなものなのか?今回は、堺市美原区多治井にある「丹比神社」を紹介します。
丹比神社を創建したのは…
丹比神社の創建時期は、よく分かっていません。ただ延喜式神名帳に記載されているため、編纂された927年より以前には存在したようです。丹比神社の祭神は、火明命、瑞歯別命(反正天皇)。加えて、菅原道真、大山祇命、伊邪那岐命、伊邪那美命、凡河内倭女姫命を合祀しています。
社伝によると、丹比連が祖神である「火明命(ほあかりのみこと)」を祭るために創建したといわれています。ただ紛らわしいことに、丹比郡を本拠地とした豪族は、異なる時代に「丹比連」と「丹比真人」の2系統存在していたことです。
丹比連とは
丹比連は、火明命を祖神とする古墳時代の豪族。丹比連の「連(むらじ)」とは、有力豪族が称する姓(かばね)の一つです。日本書紀によると火明命は、天照大神の孫である「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)」の子供。つまり火明命は、天照大神のひ孫にあたります。
平安時代に編纂された古代氏族名鑑「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」においても丹比連は、神の子孫である「神別」と分類されています。丹比連は、5世紀前半頃「反正天皇(第18代)」に仕える一族でした。丹比連は「反正天皇誕生の際に産湯をさしあげた」「反正天皇の直轄地を管理した」ともいわれており、反正天皇を支える有力豪族でした。
反正天皇は即位後、丹比柴籬宮(現在の松原市柴籬神社と推定)に都を置きます。丹比連の本拠地に都を置くほど、反正天皇は丹比連を信頼したようです。
反正天皇の時代は古墳全盛期で、百舌鳥・古市古墳群という2つの巨大古墳群が登場しました。その両古墳群の中間地点に、どちらにも属しない「黒姫山古墳」という前方後円墳が存在します。
この古墳は、丹比連の古墳と考えられています。堺と南河内において、地方豪族の大型古墳(全長114m)は珍しく、丹比連の繁栄ぶりがよくわかります。その後の丹比連は不明ですが、勢力は衰退したようで表舞台に現れなくなります。
丹比真人とは
丹比真人は、飛鳥時代から奈良時代に活躍した一族で「宣化天皇(第28代)」の末裔といわれています。丹比連が神の末裔に対し、丹比真人は天皇の末裔になります。丹比真人の「真人(まひと)」は天武天皇が定めた八色の姓(やくさのかばね)の一つ。その中でも「真人」は最高位の姓であり、主に皇族に授けられました。
丹比真人の中でも、丹比真人嶋(たじひしま)は、優れた人物として知られています。丹比真人嶋は、文武天皇の治世において、臣下の最高位である左大臣まで登りつめました。
丹比神社は、847年(承和14年)従五位を授けられ、850年(嘉祥3年)従五位上、859年(貞観元年)正五位上にすすんでいます。その際、丹比真人縄主が丹比社使になっています。以後も丹比真人は、高位に就く人物を輩出しますが、政変に敗れて衰退。平安時代以降は姿を見せなくなります。
実際に丹比神社を創建したのが、丹比連か丹比真人なのか、確かなことはわかりません。通説では、丹比連が丹比神社を創建し、後に丹比に入った丹比真人が丹比神社を氏神としたと考えられています。
後の丹比神社
手水舎の隣にある灯篭は、1814年に下野国黒羽藩の大名「大関増業」が献じたものです。下野国と河内国では距離的に離れており、不思議な関係に思えますが、大関氏は、丹比真人の末裔を称していました。
大関増業は、大阪城の警備を何度か務めており、祖先にゆかりの深い丹比神社を参拝したようです。江戸時代においても丹比神社は、丹比氏ゆかりの神社として知られていたようです。
以前の丹比神社は「若松天神」と称していました。この天神は「あまつかみ」を意味し火明命、もしくは宣化天皇を指すのではないかと言われています。1872年(明治5年)に村社に指定。1907年(明治40年)12月に神饌幣帛料供進社に指定されています。
現在の丹比神社
こちらは一の鳥居。生活道路で車高の高い車対策なのか、鳥居の貫(横に走る柱の下の部分)が取り外されています。
非常に長い参道兼道路。昔は、松が植えられていましたが、桜に植えかえられた後に、現在の舗装された参道になりました。
二の鳥居。平成16年に建てられたようで、比較的新しい鳥居になります。
玉垣に挟まれた参道を歩くと、手水舎があります。竜などの装飾が一切なく、蛇口にホースが取り付けられたシンプルな手水舎。
駐車場の入口は、2本のクスノキが門柱のようにそびえ立ちます。境内にはこの2本を含めて計5本のクスノキが立ち、一番古いものは樹齢1000年もあるとのこと。この2本のクスノキは、木の上のほうで結ばれているように見えるため「縁結びの木」としても知られています。
参道の一番奥に建つ拝殿と本殿。本殿は、壁に囲まれており、見ることはできません。
1907年(明治40年)には、美原区真福寺にある櫟本神社が合祀されています。櫟本神社も瑞歯別命(反正天皇)を祭神としており、丹比と反正天皇の深いつながりを感じます。
丹比神社では、菅原道真、大山祇命、伊邪那岐命、伊邪那美命、凡河内倭女姫命など多くの神々が合祀されています。合祀されると、摂社として境内に小さな社が置かれがちですが、丹比神社には摂社が一つも存在しません。戦前の丹比神社は今よりも広く、摂社がいくつか置かれていたそうです。ただ、戦後の混乱で敷地が狭くなったため、摂社は本殿に祭られたそうです。
境内には、反正天皇ゆかりの遺構が存在します。こちらの「反正天皇産湯の井戸」は、反正天皇の誕生時に、この井戸の水が産湯に使われたと伝わっています。
その際、産湯の中に「タチ(いたどり)の花」がこぼれ散ったことから、この地を「タチヒ野」と呼ぶようになったといわれています。また、反正天皇の諱(いみな)である「多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)」もこれが由来ともいわれています。
拝殿左側には「履中天皇の句碑」が存在。句碑には「丹比野に 寝んと知りせば 防薦も 持ちて来きましもの 寝んと知りせば」と記されています。これは、履中天皇の弟「住吉仲皇子」が謀反を起こしたため、難波宮から奈良の石上神社脱出する途中に、履中天皇が丹比で詠んだ歌です。
歌の内容は「丹比で野宿するならばムシロを持ってきたら良かった」という少々泣き言が入った歌。謀反は、履中天皇の弟である瑞歯別命(反正天皇)が素早く鎮圧します。手際よく鎮圧した背景には、丹比連の力もあったのかもしれません。
井戸の奥には、五輪塔が存在。この五輪塔は、仁徳天皇が亡くなられたことを悲しみ、反正天皇が建立したと言われています。その為、仁徳天皇陵のある西側を向いるとのこと。
かつて、この石を持ち帰り漬物石にした者がいました。しかし夜になると石が泣き出したので、もとの神社に返したという伝説が残っています。それ以来、夜泣き石と呼ばれるようになり、夜泣きのひどい赤ちゃんがお参りすると、夜泣きが良くなるという言い伝えが残っています。
丹比神社の北側には、奈良時代以降の瓦が出土する場所が存在します。一説によると、奈良時代に創建された丹比神社の神宮寺ではないかとも言われています。丹比神社神宮寺の礎石が社務所の前にあると、資料に記載されていたため探してみました。社務所の脇にある玉垣の裏にそれらしい石を発見。
丸い凹みもあり、資料の写真と見比べても類似しているので、これが礎石と思われます。元の位置からは移動されているそうですが、丹比神社神宮寺についてはまだ不明な点が多いようです。
丹比神社神宮寺以外にも、丹比神社の少し西には丹比廃寺が存在します。近接して2つも寺を建立できるほど、丹比真人は大きな権力を有していたことがわかります。現在は廃寺となり、基壇と礎石だけ残されています。
御朱印
御朱印 | 手書き |
初穂料 | なし |
祭礼
丹比神社データ
神社名 | 丹比神社 |
住所 | 大阪府堺市美原区多治井157−1 |
祭神 | 火明命、瑞歯別命(反正天皇) |
合祀 | 菅原道真公、大山祇命、伊邪那岐命、伊邪那美命、凡河内倭女姫 |
摂社 | 稲荷社・祠・瑠璃殿 |
旧社格 | 村社 |
式内社 | 式内小社 |
祭礼 | 1月1日:元旦祭 1月3日:講社祭 1月15日:火明祭 2月3日:節分祭 3月25日:春祭 7月25日:夏祭 9月1日:風喜祭 10月10日:秋大祭 12月1日:冬祭/頒布式 |
参考資料 | ・大阪府神社名鑑 ・丹比神社ホームページ ・美原区史 ・瓦が語る美原の古代寺院 |
アクセス
◆公共交通機関
近鉄南大阪線「河内松原駅」下車。近鉄バス「余部方面行き」に乗り「下黒山」下車徒歩約5分。
◆自動車
丹比神社の境内には駐車場がありますが、少し分かりづらい場所になります。国道309号線「下黒山交差点」を北へ。最初の信号のある「黒姫山交差点」を西へ曲がり直進。府道190号西藤井寺線を進み、突き当たりの信号を北へ。
直進して最初の信号を西へ曲がります。直進すると信号のない横断歩道がある交差点を右折。住宅地に入り、最初の交差点を左折。直進し最初の交差点を右折した先に丹比神社の駐車場があります。
周辺スポット
◆黒姫山古墳 ... 続きを見る
丹比神社神社から、徒歩約10分の場所にある前方後円墳。丹比連の墓と考えられています。
黒姫山古墳 | 百舌鳥でも古市でもない孤高の古墳 〜堺市美原区〜
◆堺市立みはら歴史博物館
丹比神社神社から、徒歩約10分の場所にある博物館。黒姫山古墳のほか、美原の歴史を紹介しています。
◆丹比廃寺跡
丹比神社神社から、徒歩約15分の場所にある寺跡。丹比真人が創建したと考えられています。現在は廃寺となり、礎石が残されています。
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丹比神社から徒歩約10分程の場所にある神社。境内には黒姫山古墳の石室に使われたとされる天井石が保存されています。
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