戦国時代における南河内は、将軍、管領、守護、守護代、国人、宗教が入り乱れる大カオスな状態でした。そんな混迷を極めた南河内を駆け抜けた一人の武将がいました。その名は「畠山高政」。
畠山家は、河内、紀伊を領する守護であり、足利将軍家の親戚筋にあたる名門です。しかし畠山高政が生きた時代は、家名の高さだけでは生き残れない過酷な時代でした。
畠山高政は、実力でのし上がってくる新興勢力に抗い続けましたが、どのようなものだったのか?今回は、南河内で活躍した戦国武将の一人「畠山高政」を紹介します。
畠山高政が守護になった時代
畠山高政は、1527年に誕生。この時代、足利将軍家は衰退し、管領の細川家もその地位を巡り争いが続いていました。畠山家も尾州家と総州家に分裂し、守護の座をめぐり長い争いが続いていました。
畠山高政が成人した頃は、敵対する総州家に勝利していましたが、新たな敵が力をつけてきました。それは、後に近畿の覇者となる三好長慶。三好長慶は、近畿に強い影響力を有していた主君の細川晴元を破り、一気にのし上がります。
河内を支配する畠山家ですが、この頃は守護代である遊佐長教が実権を掌握。遊佐長教は、三好長慶の義理の父にあたり、権謀術数に長けた人物でした。
守護と守護代はしばしば対立し、守護が守護代に追放されるなど、下剋上は河内にもおよんでいました。
遊佐長教の暗殺と安見宗房の台頭
ところが1551年に遊佐長教が刺客により暗殺されるという事件がおこります。家中は混乱を極めますが、事件の黒幕とされた萱振賢継を安見宗房が粛正。これにより安見宗房は、畠山家において強い発言力を持ちました。
畠山高政は、この事件の前後に河内守護に就きましたが、安見宗房が実権を握っており、両者の関係は良くありませんでした。
1558年に三好長慶と将軍足利義輝が京で対立。三好長慶の介入がないと判断した安見宗房は、この機に畠山高政の粛正を計画します。
からくも安見宗房の粛正から逃れた畠山高政は、堺を経てもう一つの領国である紀伊に逃亡します。
三好長慶と協力、そして対立
河内の事態を重く見た三好長慶は、1559年に足利義輝と和睦。兵を整え、安見宗房の篭る高屋城への侵攻を開始します。2万の軍を率いた三好軍は、いくつかの城を落としながら高屋城へ進軍。これをみた安見宗房は、自身の本拠地である北河内へ逃亡します。
畠山高政は、紀伊の国人である湯川直光とともに、高屋城を目指していましたが、安見宗房の逃亡により高屋城入城。畠山高政は、再び河内守護に返り咲きます。
守護復帰に功績あった湯川直光を守護代(正式な守護代かは諸説あり)に任じますが、これに河内の国人衆が反発。河内に縁のない湯川直光の命に従うものはなく、円滑な統治ができませんでした。
弱った畠山高政は、1560年に対立していた安見宗房と和解し、守護代(正式な守護代かは諸説あり)に任命。これにより統治が正常化するに見えました。
しかし安見宗房の復帰を聞いていなかった三好長慶は、激怒。叔父の三好康長、弟の三好実休を呼び寄せ、阿波、淡路、讃岐より高屋城を目指します。
南河内に侵攻した三好勢は、松原市の若林に布陣。高屋城攻略の足がかりとして、小山城(現、津堂城山古墳)と剛林寺(現、葛井寺)を攻略。高屋城を包囲し、畠山高政に圧力をかけます。
安見宗房は、飯盛山城より援軍にむかうも、三好勢により撃退されます。高屋城からも丹下氏など地元国人衆が出撃しますが敗北。畠山高政はしだいに追い詰められていきます。
一方の三好側としても、難攻不落の高屋城を力攻めをすれば自軍の被害も無視できません。話し合いの結果、畠山高政と安見宗房は、三好長慶に降伏。
両名は堺に出奔し、後に紀伊国に落ち延びます。飯盛山城には三好長慶が、高屋城には三好実休が入城し、河内の大半は三好家の支配下に入ります。
久米田の戦い
紀伊にて巻き返し狙っていた畠山高政ですが、1561年にチャンスが訪れます。同年3月に和泉を担当していた岸和田城主の十河一存が急死。三好長慶の弟である十河一存は、「鬼十河」と呼ばれるほど勇猛な武将で、三好家の軍事面を支えていた一人でした。
同年5月、細川晴元、昭元親子が、三好長慶によって普門寺城に幽閉する事件が発生。この事件により、細川晴元の親戚に当たる六角義賢と三好長慶が対立します。
これを好機とみた畠山高政は、同年7月に六角義賢と連携して、三好長慶に対して挙兵。六角義賢は、近江より京へ侵攻。畠山高政も、遊佐信教、安見宗房、紀伊の根来衆を率いて和泉国へ侵攻し岸和田城を包囲します。
この事態に三好長慶は、高屋城から三好実休を総大将として岸和田城救援に向かわせます。また三好長逸らに命じて、淡路、阿波からも兵を送り三好実休と合流。両軍の兵力は資料によりバラつきがありますが、畠山高政が1万~3万、三好実休が7千~2万と言われ、兵力数では畠山勢が優勢でした。
畠山高政と三好実休は、岸和田にて7ヶ月程睨み合いあいます。年が明けた1562年3月5日、ついに畠山高政は、久米田寺(又は貝吹山城)に本陣を置いていた三好実休に攻めかかります。これが久米田の戦いです。
数に劣る三好勢ですが、指揮は統一され戦慣れしていました。一方の畠山勢は、数に勝るものの、紀伊衆、根来衆、奉公衆などが個別に戦い、指揮が一本化されていませんでした。戦況は三好勢が有利に進み、畠山勢は徐々に押されていきます。
しかし、三好勢には死角がありました。全軍で攻勢にでたことで、三好実休を守る兵は100旗ほどに減少。それに気づいた畠山高政は、三好実休の本陣へ根来衆を密かに送り強襲します。
手薄の本陣をつかれた三好実休は、奮戦むなしく根来衆により討ち取られることに。一説によると、日本で初めて鉄砲で撃ち倒された武将とも言われています。
総大将が討ち取られたことにより形勢は逆転。三好勢は敗走し、追撃により多くの兵が討ち取られました。三好長慶は、この戦いにより三好実休という頼れる弟を失い、大きな痛手を負うことなりました。
教興寺の戦い
久米田の戦いにて大勝利を得た畠山高政は、勢いに乗じて三好長慶の居城「飯盛山城」へ迫ります。しかし三好勢も体制を立て直して反撃を開始。
六角義賢と対峙していた三好義興、松永久秀らが摂津衆を集めて、飯盛山城へ救援。久米田の戦いで敗れた淡路、阿波衆も体制を立て直して飯盛山城に集結します。
体制を立て直した三好勢に対して、畠山高政は高屋城まで後退。それを追うように、三好勢は4万〜5万の兵を率いて南下を続けます。1562年、両軍は八尾市にある教興寺付近で激突。これが教興寺の戦いです。
兵力、統率ともに勝る三好勢は、畠山勢を圧倒。紀伊勢を率いていた湯川直光が討ち死にするほか、畠山高政に味方した多くのの国人衆が破れるなど総崩れとなりました。
畠山高政は、河内長野にある烏帽子形城にまで撤退後、紀伊に落ち延びることになります。
この戦いに勝利した三好長慶は、河内、和泉を掌握。大和国や紀伊北部にも影響を強め、近畿一円をほぼ支配することになります。
南河内の安堵と遊佐信教の台頭
畠山家の没落により、三好家の河内支配が固まったかに見えました。しかし教興寺の戦い以後、三好家には陰りが見え始めます。
1563年に嫡子である三好義興が22歳の若さで急死。1564年には、三好長慶の弟である安宅冬康が讒言により粛清。三好長慶も度重なる身内の死により、病に伏せるようになります。
同年7月、心身ともに異常をきたしていた三好長慶は病死。三好家の近畿支配が揺らぎ始めます。
1565年に、三好家の実権を握っていた三好三人衆と松永久秀が、将軍足利義輝を殺害する事件が発生。この事件を受けて畠山高政は、弟の畠山秋高に家督を譲り足利義輝の弟である足利義昭の将軍擁立に関わっていきます。
1568年、織田信長が足利義昭を擁して京都へ上洛。畠山秋高は、足利義昭を支援してきた功績が認められ、河内の南半分を安堵されます。ただし北河内は敵対していた、三好義継が支配することに。
南河内を安堵された畠山家でしたが、1571年に足利義昭と織田信長が対立。足利義昭は信長包囲網を敷き、各勢力が争い始めます。北河内の三好義継は、義昭派に組して信長に抵抗。畠山高政、秋高兄弟は信長派として三好義継と対立します。
混沌とする中、1573年に守護代の遊佐信教(遊佐長教の息子)が、畠山秋高を高屋城で殺害。信長派の畠山秋高は、義昭派だった遊佐信教と以前から対立していたと言われています。
南河内の支配を遊佐信教に奪われたことにより、畠山高政は高屋城の奪還を試みますが敗退。遊佐信教は、三好康長を味方に付け南河内を支配し信長に対抗します。
1575年、織田信長は南河内に侵攻し、高屋城を包囲。三好康長は降伏し、遊佐信教は行方不明となります。
しかし畠山高政が南河内に返り咲くことはなく、その後、歴史の表舞台に現れることはありませんでした。
キリスト教への改宗と晩年
没落した畠山高政は、河内、紀伊を流浪したと言われています。晩年は旧臣でキリシタンの伊地知文太夫の影響を受け、キリスト教に改宗したと言われています。
伊地知文太夫は、河内長野市にある烏帽子形城城主であり、城下ではキリスト教が奨励されていたと伝わっています。
畠山高政の最後についてはよくわかっていません。ただ河内長野市にある観心寺に、畠山高政の墓と伝わる石塔が残されています。秀吉によるキリスト教禁止令により、再び仏教に改宗したのかもしれません。
まとめ
畠山高政は、守護大名から戦国大名になることはできませんでした。守護による直接統治を成し遂げていれば、畠山高政も戦国大名となれたかもしれません。
戦国大名化できなかった理由としては
・分裂した畠山家を早期に統一出来なかった。
・守護という地位ゆえに幕府内の争いに巻き込まれやすかった
・守護代である遊佐家の台頭を防げなかった
畠山高政は、名門中の名門ゆえに古いしきたりから脱却できず、下剋上に対応できなかったのかもしれません。
守護としての畠山氏は滅びましたが、畠山高政の弟が家名を存続し、末裔は高家として幕末まで続きました。
国を失った大名たちの、多くが没落し庶民となりました。しかし後世にそれなりの家格を保ちながら畠山家を存続させることができたのも、畠山高政の執念が実ったのかもしれません。
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・羽曳野市史
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