桃井春蔵という人物をご存知でしょうか?あまり知らない人だったのですが、たまたま、羽曳野市に桃井春蔵の墓の存在を知り調べてみると中々興味深い人物でした。
幕末の江戸では三大道場主の一人として名を上げ、明治維新後には維新三傑の一人、大久保利道の代役も務めたほどの人物なのです。
その桃井春蔵が南河内とどのような関係があったのか?今回は羽曳野市、千早赤阪村にゆかりのある桃井春蔵について紹介します。
桃井春蔵と呼ばれるまで
旧姓は田中直正。駿河国沼津藩士の家に産まれます。理由はよくわかりませんが、1838年に江戸へ出て14歳で鏡新明智流の道場・士学館に入門します。
その頃の志学館は3代目桃井春蔵である桃井直雄が館長を務めていました。(志学館館長は歴代「桃井春蔵」を名乗る)
しかし初代、2代目桃井春蔵の時代までは栄えていた志学館も3代目に入り勢いがなくなっていました。
そこに桃井直雄の長女の夫の紹介で直正が志学館に入門。直正の剣筋の良さにほれ込んだ直雄は熱心に直正を指導し、17歳の時に初伝目録を得ます。
同時に桃井直雄の末娘きくの婿養子となり「桃井春蔵直正」と名を改めます。(以後、桃井春蔵と表記)
桃井春蔵は25歳で師から奥義を伝授される「奥伝」を獲得。27歳で4代目志学館館長を継ぎます。
幕末江戸三大道場主の一人として
4代目を引き継いだ時に志学館は人気のピークを迎えます。まだ20代の桃井春蔵は貴公子たるイケメンで、その颯爽たる姿で竹刀を構えると誰もがほれぼれする美しさだったとか。
その美しい姿を見た幕臣の高木伊勢守が「その姿勢、位は他に類無し」と讃えたことから「位の桃井」と呼ばれました。
当時江戸では「斎藤弥九郎の練兵館(神道無念流)」「千葉周作の玄武館(北辰一刀流)」「桃井春蔵の志学館(鏡新明智流)」が「幕末江戸三大道場」と呼ばれていました。それぞれに特徴があることから「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」とも評されたそうです。
1856年、土佐から武市瑞山と岡田以蔵らが士学館に入門。武市の腕前と人物を認めた桃井春蔵は武市を塾頭とし、道場の風紀をただします。武市は後に土佐勤王党を結成し、志士たちの間で名声を得ます。
尊皇思想の強い武市瑞山の影響かはわかりませんが、桃井も尊皇寄りの考え方を持っていたようです。この尊皇思想が桃井の人生に大きな影響を与えます。
1862年には幕府から登用され幕臣となります。この辺り、思想にとらわれず現実的な判断を下す人物であるのが伺えます。
桃井春蔵は剣の腕は達人ながら、争いを好まず人を斬ることもありませんでした。それを表すエピソードがあります。
稽古の帰りに桃井春蔵と門弟たちが町を歩いていると、前から新徴組(新撰組の江戸版)が歩いて来て「もっと端に寄れ」と高飛車に凄んできました。
怒った門弟たちと新徴組が刀を抜き合い一触即発の雰囲気に。すると桃井はその刀を抜き合っている中をスルスルと進み、新徴組を率いる庄内藩士の元に近づきます。
そこで「私は公儀与力・講武所教授方桃井春蔵という者、ここにいるのは士学館の弟子である。ご希望ならばお相手する」と述べると相手は謝罪し喧嘩は収まります。
桃井春蔵の名は江戸中で広く知れ渡っていたのがわかると同時に、争いを好まない桃井の人柄が伺えるエピソードですね。
戊辰戦争とその後
1867年に幕府軍の遊撃隊頭取並に任じられ、将軍・徳川慶喜の上洛に警護役となります。
翌1867年、幕府と対立する薩摩、長州藩は朝廷を抱き込み新政府を樹立。幕府と新政府の対立が深刻化します。
遊撃隊内では新政府に対して恭順派と抗戦派に別れて対立します。恭順派であった桃井春蔵は抗戦派に命を狙われることになり、南河内の幸雲院という寺に身を隠します。
南河内の幸雲院はどこにあるのか調べてみましたが、どうもそれらしい寺は見つからず、現在はもう残っていないのかもしれません。
鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北すると、幕臣達で結成された彰義隊に誘われますがこれを断ります。
逆に新戊辰戦争の開戦に反対した経緯から新政府側より大阪市北区にあった川崎東照宮に道場を建て、大阪の治安部隊に剣術を指導します。
その後、無政府状態の大阪の治安を維持するために、新政府は1868年に「浪華隊」を結成。実質的な隊長に桃井春蔵が選ばれます。これが大阪府警のルーツとも言われます。
浪華隊は鼓笛隊を先頭に真赤の隊旗を立て派手に行進したため人気があったそうで、浮世絵にも描かれています。
浪花百景 玉江橋景
その後、浪華隊は解散。桃井春蔵は1875年に誉田八幡宮の祠官(神官)となり、境内に道場を建て撃剣や儒学を教えていたようです。
桃井春蔵と楠木正成生誕碑
「道の駅ちはやあかさか」の隣には「楠木正成生誕碑」があります。この碑の建設に際して桃井春蔵が関係しています。
この「楠木正成生誕碑」に関わる記録としては1593年〜1596年の文禄年間に豊臣秀吉の命により土壇を築き、楠木邸にあったと言われる百日紅(サルスベリ)を植えたという記録や、1688年〜1704年の元禄年間には石川総茂が保護したという記録があります。
このような記録からも、「楠木正成生誕碑」のある場所は昔から特別な場所として認識されていたようです。
この「楠木正成生誕碑」に桃井春蔵がどう関係したのか?
1875年に大久保利道、板垣退助、木戸幸允が大阪に集まり話し合いが行われました。いわゆる大阪会議です。
大阪会議の内容はこの話に全く関係ないので省きますが、大阪会議の後、大久保利通は富田林の杉山家と千早赤阪村にある楠木正成生誕地へ赴きました。
楠木正成生誕碑に来たときに、大久保はこの地に石碑を建てることを命じます。そして石碑の「楠木正成生誕碑」の文字は大久保利通が書く予定でした。
しかし1878年5月に紀尾井坂の変で大久保利道は暗殺されてしまいます。そこで代わりに当時、誉田八幡宮の祠官(神官)となっていた桃井春蔵が生誕碑の文字を代筆する事になります。
あの維新三傑の一人である大久保利道の代わりなどは、頼む方も人選に悩むでしょうし、受ける方も相当のプレッシャーだと思います。
桃井春蔵が何故選ばれたのか?説明版には「幕末勤王派三剣士の一人」だからというニュアンスですが、桃井は元々幕臣でした。
おそらく元幕臣で明治政府の役職に就いていない事が重要だったのではないでしょうか?
もし、薩摩や長州出身の政府関係者が大久保利道の代筆をしたのなら、その者が大久保と同格に準じるものと見なされかねません。
そうした面倒をさけるため、桃井春蔵が選ばれたのかもしれません。もちろん、桃井が知名度が高く人格者であったというのは前提としてあったとは思います。
まとめ
駿河で産まれ、江戸で名をあげた桃井春蔵は南河内にて1885年、コレラが原因で61歳の生涯を終えます。
争いを好まない桃井春蔵も強盗3人を大和川に投げ込んだり、狩猟中に誤って応神天皇陵に発砲した大阪府知事を怒鳴りつけるなど、意外に豪快な一面もあったようです。
その桃井春蔵は誉田八幡宮のすぐ近くにある墓山古墳横にある一般墓地に静かに眠っています。
楠木正成生誕地データ
住所:大阪府南河内郡千早赤阪村二河原邊7
駐車場:あり
備 考:千早赤阪村 郷土資料館横
桃井春蔵墓地データ
住所:大阪府羽曳野市白鳥3丁目10-5
駐車場:すぐ隣にコインパーキングあり
アクセス:近鉄南大阪線古市駅よりとほ約15分