南河内の古墳を紹介する「ぶら古墳シリーズ」。今回は、藤井寺市青山にある「仁賢天皇陵(ボケ山古墳)」です。百舌鳥古市古墳群の一つですが、世界文化遺産登録リストには含まれていません。
仁賢天皇陵(ボケ山古墳)とは
全長122m、高さ13mで、6世紀前半に築造されたとされる前方後円墳。古市古墳群の中では終盤に築造された古墳になります。
ボケ山古墳は、前方部の底辺の幅が後円部に対して広く、後期古墳の特徴を有しています。水を満たした盾型の周濠を有していますが、南側がすこし突き出しているため、左右対称にはなっていません。
宮内庁が管理しており詳しい中の調査はできていませんが、埋葬施設は横穴式石室と考えられています。仁賢天皇陵の西には、「野々上埴輪窯跡」が見つかっており、この窯で作られた埴輪が、仁賢天皇陵に使用されています。
また、仁賢天皇陵の北西に存在する野々上古墳が、宮内庁より「埴生坂本陵い号陪塚」に指定されています。他に消滅した五手治古墳も北側に存在していましたが、どちらの古墳も仁賢天皇陵より100年近く古く、陪塚ではないと考えられています。
仁賢天皇とは
仁賢天皇は、名を億計(おけ)と言い、祖父は履中天皇、父は市辺押磐皇子、母は荑媛、息子に第25代武烈天皇。弟に、第23代顕宗天皇(弘計王-をけおう)がいます。
流浪の兄弟
父の市辺押磐皇子は第20代安康天皇の有力な後継者でした。しかし安康天皇が暗殺されると、市辺押磐皇子の従兄弟である大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に謀殺。大泊瀬皇子は他の後継有力者を次々と殺害し、第21代雄略天皇として即位します。父の死を知った億計王は身の危険を感じ、兄の弘計王と播磨まで逃亡。名を変え、播磨の有力者「縮見」の家臣として身を隠していました。
雄略天皇が崩御すると、雄略天皇の息子「第22代清寧天皇」が即位。清寧天皇には子がなく、めぼしい皇族は雄略天皇が殺害していたため後継者に不安を抱えていました。
ある時、清寧天皇の家臣「小盾」が、播磨にある縮見の館へ訪れます。祝いの宴が始まり、舞を命ぜられた兄弟に対し、弟の弘計王は身分を明かすのは今しかないと決意。兄弟の身分知った小盾は驚き、清寧天皇に報告します。清寧天皇は後継者が見つかったと喜び、二人を後継者としました。
その後、安心したのか数年後に清寧天皇は崩御します。後継を巡り兄弟で譲り合いが続きましたが、弟の弘計王が折れて、第23代顕宗天皇として即位。億計王は弟をサポートし、顕宗天皇の治世は平和だったと言われています。
弟の顕宗天皇をサポート
顕宗天皇は父を殺害した雄略天皇を深く恨んでおり、復讐のため雄略天皇陵の破壊を家臣に命じます。それを聞いた億計王は自らが赴き、雄略天皇陵の土を少し削って帰ってきました。
なぜ全て破壊しなかったと訊ねると
「確かにその気持ちは理解できます。しかし仮にも天皇の地位にあった方の陵を破壊すれば、後に批判されるかもしれません。そこで全て破壊せず、一部を削ずることで志のあることを後世にしめせるでしょう」
と答え、顕宗天皇を納得させました。
顕宗天皇は在位数年で崩御します。後継に億計王が第24代仁賢天皇として即位。雄略天皇の娘である春日大娘皇女を皇后とします。
ようやく即位
仁賢天皇も平和に国を治め、大きな出来事も起こりませんでした。しかしわずか数年の在位で崩御。後継は、春日大娘皇女との子である武烈天皇が即位。武烈天皇も短い在位で崩御しますが、子がいなかったため、仁徳天皇の系統はここで断絶してしまいます。
後継は越前(福井)から擁立された、応神天皇の五代末裔を称する継体天皇が即位。継体天皇の息子「安閑天皇」に仁賢天皇の娘を后とさせ、仁徳天皇の血を僅かに残すことになります。
現在の仁賢天皇陵
仁賢天皇は有能な人物であったようですが、なぜか古墳名は「ボケ山古墳」。一説によると「億計(おけ)」が訛って「ボケ」になったとの説もあります。本当だとすれば、とんでもない方向に訛ってしまいましたね…
仁賢天皇陵の後円部に接するように上田池、下田池という2つの池が存在します。この2つの池は灌漑用に利用されていましたが、古墳時代には古市大溝と呼ばれる巨大な運河の一部だったとも言われれています。
この運河の全容も利用方法もよくわかっていませんが、物資運搬という説、灌漑用という説などと考えられています。池と接するこの一角は公園として整備されており、春は古墳を背景に美しい桜が楽しめます。
前方部から墳丘添いに歩いていると「野々上埴輪窯跡」の案内板が見えてきます。と言っても案内板しかなく、これと言って何があるわけでもありません。ただ、このポイントからは仁賢天皇陵の墳丘が確認でき、身近に見ることができます。
案内板の隣には公園があり、こちらからも古墳を見ることができます。遥拝所の鳥居が見えるので着いたと思いきや、道が見当たらず行きたくても近ずけないという古市古墳群遥拝所パターン。
公園をさらに南西へ向かい、車道を少し南へ歩くと「仁賢天皇陵参道」の石碑が見えてきます。畑と住宅に挟まれた小径を抜けると、遥拝所に到着。池側から行くよりも、LICはびきの方面から向かう方が分かりやすいかも知れません。
ここで思うのも何なんですが、仁賢天皇の名が「億計(おけ)」で、顕宗天皇の名が「弘計王(をけ)」ってなかなか大混乱な名前の付け方ですね。周りの人も呼ぶとき困らなかったのか…そんなどうでもいいことを考えながら、遥拝所を後にしました。
仁賢天皇御陵印
受領場所 | 宮内庁古市陵墓監区事務所 |
住所 | 大阪府羽曳野市誉田6丁目11−3 |
仁賢天皇陵(ボケ山古墳)データ
古墳名 | ボケ山古墳 |
宮内庁 | 埴生坂本陵 (はにゅうのさかもとのみささぎ) |
住所 | 大阪府藤井寺市青山3丁目 |
墳形 | 前方後円墳 |
直径 | 122m |
高さ | 13m |
築造時期 | 6世紀前半 |
被葬者 | 仁賢天皇 |
埋葬施設 | 横穴式石室(推定) |
出土物 | |
参考資料 |
アクセスと駐車場
最寄駅は近鉄南大阪線「古市駅」より西へ徒歩約20分。古墳周辺に駐車スペースはありません。仁賢天皇陵から南に5分程の場所に「LICはびきの」の有料駐車場があります。ここに停めれば、周辺にある幾つかの史跡をまとめて行くことが可能です。
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