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野中寺|弥勒菩薩像の御開帳と境内の見所とは?【御朱印】〜羽曳野市・アクセスと駐車場〜

野中寺

羽曳野市にある「野中寺(やちゅうじ)」は、7世紀頃に創建された由緒あるお寺として知られています。かつては多くの伽藍を有する大寺院でしたが、戦乱により創建時の伽藍は失われています。



しかし国の重要文化財である「金銅弥勒菩薩半跏像」をはじめ、多くの文化財が保存されており、歴史好きには非常に見所の多いお寺でもあります。

野中寺にはどのような歴史的スポットがあるのか?今回は、羽曳野市にある「野中寺」を紹介します。

野中寺とは

聖徳太子 叡福寺

寺伝によると野中寺は、1400年程前に蘇我馬子の助力を得て聖徳太子が創建したといわれています。




野中寺は、叡福寺(上ノ太子)大勝聖軍寺(下ノ太子)に対して「中ノ太子」と呼ばれ、聖徳太子ゆかりの「河内三太子」の一つとして知られています。

聖徳太子 墓 叡福寺
叡福寺(上ノ太子)
大勝聖軍寺
大勝聖軍寺(下ノ太子)

船氏の氏寺説

野中寺

野中寺は、聖徳太子の創建と伝わっていますが、現在では渡来系豪族「船氏」の氏寺と考えられています。

飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した船氏は、応神天皇の時代に日本に帰化した百済の王族「辰孫王(しんそんおう)」を祖先に持ちます。




同族に「葛井氏」「津氏」がおり、この3氏は羽曳野、藤井寺一帯を本拠地としていました。葛井氏は「葛井寺」、津氏は「善正寺(廃寺)」、船氏は「野中寺」を氏寺としていたと考えられています。

葛井寺
葛井寺

かつて野中寺の南側にある丘陵地帯は「寺山」と呼ばれ、船氏、葛井氏、津氏の共同墓地があったと記されています。




寺山近くには小口山古墳など7世紀後半の終末古墳が存在。時期や場所から、3氏に関わる墓の可能性もあります。

小口山古墳
小口山古墳

また野中寺の東には「野々上遺跡」が存在しています。7世紀~10世紀にかけての遺跡で、野中寺の瓦や、他に類を見ない土製のお面が見つかっています。

調査により、野々上遺跡は野中寺を創建した一族の遺跡で、この一族が渡来系ではないかと考えられています。

ヒチンジョ池西古墳石棺

境内には「ヒチンジョ池西古墳石棺」が保存されています。ヒチンジョ池西古墳は、野中寺から南へ900m程の場所に存在した古墳。

野中寺

開発により消滅しましたが、7世紀後半~8世紀初めの終末古墳とされています。




ヒチンジョ池西古墳も小口山古墳同様に横口式石槨を有しており、寺山にも近いことから渡来系豪族の墓と考えられています。ただ船氏に関係するかは分かっていません。

創建時の野中寺

創建時の野中寺は、塔や金堂などの伽藍を有していました。現在も境内には、当時の面影を残す金堂と塔の礎石が存在します。

野中寺

塔の礎石は三方に添柱座を彫りこみ、柱穴側面に横穴式舎利を納める小孔のある珍しい礎石。

野中寺

野中寺の伽藍配置は法隆寺と同じとされています。しかし伽藍の正面は、法隆寺がどちらも南向きに対して、野中寺はお互い向き合っていたようです。




伽藍配置には法隆寺式、川原寺式、四天王寺式などいくつかのパターンが存在します。野中寺の伽藍配置は、塔と金堂の配置は法隆寺式、正面の向きは、塔と金堂が向き合う川原寺式だったと考えられています。

野中寺

それ以降の歴史

野中寺は、南北朝時代に戦乱により伽藍を焼失しています。記録によれば1337年3月、松原市の丹下城を拠点とする丹下三郎入道西念と、岸和田周辺を拠点とする岸和田治が、野中寺前で合戦となっています。

大塚山古墳
丹下城があった大塚山古墳

また野中寺の隣にある野々上八幡神社の社伝によると、1375年に野中寺近くの野中寺城で、南朝と北朝による合戦がありました。その合戦に巻き込まれた野中寺と野々上八幡神社は、伽藍を焼失しています。

野々上八幡神社

江戸時代の寛文年間(1661~1673)に、律宗の名僧「慈忍慧猛」により野中寺は再興。のちに野中寺は、戒律を専門とする修行道場として名が知られるようになります。




境内には、修行僧達が生活していた遺構が多く残されています。比丘寮(びくりょう)、沙弥寮(しゃみりょう)、食堂(じきどう)、方丈(ほうじょう)などの建物は、府の文化財に指定されています。

野中寺

野中寺から200mほどの場所にある法泉禅寺は、かつては野中寺の別院でした。江戸時代に黄檗宗のお寺となり、現在は独立しています。

野中寺と法泉禅寺の間にある元野中寺伽藍礎石

法泉禅寺の本尊である聖観音立像は、もともと野中寺にあったものでしたが、独立の際に法泉禅寺に移されています。

現在の野中寺

野中寺

野中寺は、羽曳野丘陵の北端に存在。創建時は、北に仲哀天皇陵、南西に仁賢天皇陵、東には巨大な応神天皇陵が見渡せたと思われます。




野中寺は、堺市から竹内峠を経て飛鳥の都へ通じる「竹内街道」沿いに位置しています。竹内街道は、日本初の官道として知られており、諸外国からの人や物が行き交う重要なルートでした。

竹内街道
駒ヶ谷駅付近にある竹内街道の案内

両脇に仁王像を持つ山門を抜けると、左に塔跡、右に金堂跡が存在します。

野中寺
野中寺
野中寺
野中寺
野中寺

さらに進むと、左に「ヒチンジョ池西古墳石棺」が保存されています。

野中寺

聖徳太子石像(移転)

野中寺

ヒチンジョ池西古墳石棺の先に進むと、看板が置かれています。かつてこの場所には「聖徳太子像」と伝わる朝鮮風石像が存在しました。




実際にはいつ、誰が、誰をモチーフにしたかわかっていません。現在は、京都の高麗美術館にて保管されています。

野中寺

お染と久松の墓

聖徳太子石像跡の左奥は墓地になっています。この墓地には「お染めと久松の墓」が存在します。お染めと久松は、浄瑠璃や歌舞伎の演目「野崎村」のモデルとなった人物。

野中寺

野崎村は大阪府大東市にあり、野崎観音で知られています。「野崎村」のあらすじは、

野崎村に住む久作には養子の久松と連れ子のお光がいました。久作は将来、久松とお光を結婚させようと思っていましたが、久松は奉公先の天王寺屋の娘お染めと恋仲になります。




しかし久松は奉公先で妬まれ、店に居辛くなり野崎村へもどることに。そんな久松に養父の久作は、お光と結婚しろとプレッシャーをかけます。そんな所に野崎参りと称して久松の所にお染めが押し掛け・・・というお話です。

お染めと久松の墓は、天王寺屋により2人の17回忌に建てられました。天王寺屋は、野中寺の学問所の有力な後援者の1人だったことから、2人の供養を野中寺で行ったと考えられています。

金銅弥勒菩薩半跏像と木造地蔵菩薩立像

野中寺にある金銅弥勒菩薩半跏思惟像(以下、弥勒菩薩像)は、飛鳥時代後期の特色を備える仏像として、国の重要文化財に指定されています。18.5cmの小ぶりの像は大正時代に寺の倉から偶然発見とのこと。

野中寺

弥勒菩薩像は、毎月18日に御開帳されています。拝観料が必要ですが、解説を聞きがら近くで拝観できます。拝観日に寺務所で申し込むと、中庭にある「方丈」へ案内してもらえます。




方丈とは、1丈四方(約10㎡)の広さを持つ小さな建物で、元々は寺の住職が住む用途として普及していました。室町時代以降は、仏像などが置かれる本堂的な役割を持つようになったとのこと。

野中寺の方丈は、郡山藩主の邸宅を移築したものと伝わっています。方丈は南側が大きく開いて、庭園が一望できます。

野中寺

重要文化財を間近で正座しながらご対面と言う事で、少し緊張します。像の隣にはお寺の方が座り、弥勒菩薩像の説明をして頂けます。

像の台座には「いつ」「何の為に作られた」が記されており、当時の時代背景を伝える貴重な文化財とされています。

記載された内容については、解釈が別れていますが、666年に天皇の病状回復を祈願して作製されたとあります。ただこの天皇が誰なのかについては判明していません。

野中寺

弥勒菩薩像は、作られた時代も台に刻まれた銘文も怪しいとの説もありました。しかし調査の結果、現在では飛鳥時代の作品と考えられています。

初めて見る弥勒菩薩像は、想像していたよりも小さく、可憐な姿にしばらく見とれてしまいました。




弥勒菩薩像の拝観後に、同じく国の重要文化財である「木造地蔵菩薩立像」を見る事ができます。

野中寺

木造地蔵菩薩立像は、1本の桧を削って作ったと言う一木造りの像。内部をくり抜かずそのまま生かして作られているため、木材の状態によっては割れやすい特徴があるそうです。

左手の錫杖、右手の宝珠、背後の光背、着衣の文様から鎌倉時代の作と言われていました。しかし、他の個所では平安時代前期の特徴も見られることから、10世紀後半に作られたという説が有力になっています。




木造地蔵菩薩立像は、江戸時代の初期に明正天皇が皇子の無事な子育てを祈り、願いが叶った事から、安産子育地蔵尊として信仰を集めていました。

天皇が皇子の子育てを祈ると言うのはどういう事なのかと思いましたが、明正天皇は称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇とのこと。

Wikipediaより
"御歴代百廿一天皇御尊影" [Public domain]

明正天皇自身が子育てをするのではないでしょうが、母心として祈らずにはいられなかったのかもしれません。しかし、野中寺と皇室にどんな繋がりがあったのでしょうか?

木造地蔵菩薩立像は、一般的なお地蔵様ぐらいのサイズですが、見上げる位置にあるので少し迫力を感じます。地蔵堂の前には、戦前まで国宝だったという石碑が残っています。

野中寺

御朱印

野中寺御朱印

アクセスと駐車場

・公共交通機関
近鉄南大阪線「藤井寺駅」下車。駅南側より近鉄バスで「野々上停留所」下車すぐ。

・駐車場
野中寺には無料の駐車場があります。国道170号線を北から来る場合は「応神陵前交差点」の先にあるバイパスを登らずに側道を直進し、野中交差点を西へ。国道170号線を南から来る場合は「軽里北交差点」の先にあるバイパスを登らずに側道を直進し、野中交差点を西へ。しばらく直進すると野中寺交差点前に野中寺が存在します。

周辺スポット

・野々上八幡神社
野中寺の隣にある神社。詳しい創建は分かっていません。

法泉禅寺
野中寺から徒歩3分程の場所にあるお寺。かつては、野中寺の別院でもありました。

・仁賢天皇陵
野中寺から徒歩15分程の場所にある古墳。仁賢天皇を祭るとされる前方後円墳。

・仲哀天皇陵
野中寺から徒歩15分程の場所にある古墳。仲哀天皇を祭る前方後円墳。

・来目皇子墓
野中寺から徒歩15分程の場所にある古墳。聖徳太子の弟である来目皇子を祭る方墳。

・峰塚公園
野中寺から徒歩15分程の場所にある公園。終末古墳の小口山古墳や、世界文化遺産に登録されている峯ヶ塚古墳などが存在します。

青龍山 野中寺

住所大阪府羽曳野市野々上5丁目9番24号
山号青龍山
宗派高野山真言宗
本尊薬師如来
開祖(伝)蘇我馬子・聖徳太子
開帳毎月18日(9:00〜16:00)
札所聖徳太子霊跡5番
西国薬師四十九霊場14番

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