昔から地域を守り続ける神社を紹介する「となりの鎮守様」シリーズ。今回は、松原市田井城にある「田坐神社(たざじんじゃ)」です。松原市にある田坐神社は、4世紀にまで遡る古い歴史を持つ神社です。
実は、この田坐神社「日本における養蚕発祥の地」とも言われています。養蚕(ようさん)とは蚕を育てて、その繭から絹の糸を作り出すことです。そんな養蚕と田坐神社にどんな関係があるのか?今回は松原市田井城にある田坐神社を紹介します。
田坐神社の神様は?
田坐神社の祭神は、実のところよく分かっていません。現在のところ
1依羅宿禰(よさみすくね)
2呉服漢織(くれはあやは)
3八幡神(応神天皇)
4豊宇気昆売神(とようけびめ)
が候補に上がっています。特に1、2の神様は田坐神社の創建に関わりがあるとされています。
依羅宿禰は、大阪住吉区から松原市北部を本拠地とする古代氏族として知られています。大阪住吉区には依羅宿禰が創建したとされる大依羅神社が存在。呉服漢織は、日本書紀に登場する絹織物の女性技術者「呉織」「漢織」と考えられています。
平安時代後期に田坐神社のある田井城は、石清水八幡宮の荘園となります。田坐神社において八幡神が祭られたのは、もしかすると石清水八幡宮と関係があるのかもしれません。(石清水八幡宮の祭神は応神天皇)豊宇気昆売神は丹波地方に縁のある神様になります。豊宇気昆売神が祭神の候補に上がっている理由はよくわかっていません。
田坐神社の歴史
田坐神社は、927年に編纂された「延喜式神名帳」に記載された式内社。年数がわかる記録として、901年に編纂された歴史書「日本三代実録」が存在します。記録によれば「862年4月26日に従五位下の位が授けられ、その年の5月17日に官社に列した」と記されています。このことから少なくとも、862年以前には田坐神社は存在したと思われます。かつては末社八社を有し、200坪もの敷地を持つ神社と伝わっています。
また日本書紀によると、681年4月に田井直吉麻呂に「連」の姓を賜ったと記されています。江戸時代の国学者である伴信友が記した「渡合神名帳考証」によると、田井直吉麻呂が祖神を祭るために創建したとの説もあります。
後に1906年から明治政府が神社合祀政策を進めると、田坐神社も1908年3月に松原市上田にある柴籬神社に合祀されます。その後、1985年4月に遷座祭が行われ、旧地に復帰。1997年9月に本殿が新築整備され現在に至ります。
田坐神社は養蚕発祥の地?
祭神候補「呉服漢織」の「呉織」「漢織」は日本書紀に2回登場。1回目は応神天皇の項に登場し、呉国(中国)に派遣された阿知使主・都加使主親子が派遣され、呉王から兄媛・弟媛・呉織・穴織の4人の縫工女を与えられたと記されています。
2回目は雄略天皇の項において、身狭村主青が呉国(中国)から献上された兄媛・弟媛・呉織・穴織の4人の技術者を連れて大阪の住吉津へ帰国。呉からの客人の為に道を作り、八尾方面から飛鳥へ向かったと記されています。
当時の日本は、養蚕から絹織りまでの技術が確立されていなかったようで、他国より絹織物の女性技術者を招来していたようです。江戸時代に書かれた「田井城村初り」「田坐神社の事付 蚕を飼事」という地元の文書には、「呉織」「穴織」に関する伝承が記されています。
文書によると、応神天皇の時代に日本にやってきた「呉織」「穴織」は住吉の長狭(ながお)の浦より磯歯津路を通って、住道村(東住吉区矢田)から呉村(喜連)を経て、丹北郡田坐へ到着。
田坐において織女は、多くの桑の木をこの地に植えて蚕を飼育し、絹糸を生産。当時、田井城を治めていた依羅宿禰に蚕生産を管理させたといわれています。田坐神社において依羅宿禰が祭神の一人とされる由来は、この事からきているようです。
しかし6世紀半ば頃、欽明天皇は都である磯城金刺宮に、綾絹生産を移してしまいます。こうして田坐における養蚕は終わりを告げます。4世紀まで遡る田坐神社ですが、実は養蚕発祥の地だったのかもしれません。
田坐神社の名前の由来
境内にある田坐神社由来の石碑によれば「仁徳天皇がこの地に行幸せられ、綾織を見給い、その折の殿舎仮宮のいわれにより田坐と称した」と記されています。また、境内の案内板には「和妙抄によると河内国丹比郡田邑(多無良)にあたり、田の中に存する神、田に坐す神から社名が生まれた」とも伝わっています。
つまり、仁徳天皇がこの地に仮宮を建てたか、田邑にある神社かという2つの説があるようです。どちらが本当かはわかりませんが「誰」もしくは「何か」が「田に坐した」事が由来となっているようです。
現在の田坐神社
現在の田坐神社は田井城の氏神として崇拝されています。「田井城」という地名については、戦乱期この地に環濠集落や砦が築かれたことが由来とされています。1997年に新築整備されたため、境内は非常に綺麗になっています。鳥居も比較的新しい造りです。
入って右側にある手水舎。その奥には、古い灯篭が置かれています。
手水舎の左にある祈祷についての案内板。田坐神社は宮司が常駐しない無人の神社のため、厄払いやお祓いなどの祈祷については、柴籬神社本殿で行われています。
案内板の左にある田坐神社由来の石碑。石碑には由来の他、奈良時代の歌集「万葉集」に載った田井城に関する2首歌が書かれています。
~鶴が音の聞こゆる田居に廬りして我れ旅なりと妹に告げこそ~
~春霞たなびく田居に廬つきて秋田刈るまで思はしむらく~
この歌から田井城は、田畑が広がる豊かな土地であったと想像できます。(田居は「田の中」という意味なので田井城の事を歌っているとは限りませんが・・・)
拝殿前の狛犬。何故か黒目がぬられておらず、目が回っているような感じです…
こちらが拝殿になります。拝殿の中には、生まれたばかりの応神天皇を抱く竹内宿禰の絵馬があるそうです。
拝殿にかかる扁額は中々味のある書体です。
裏手からみた本殿。
隣は公園のようになっていますが、フェンスに囲まれて中に入れません。どうやら昔は「宮池」という池だったようです。ちなみに、境内にカラス夫婦のねぐらがあったようで、参拝中はずっと上から威嚇されてました…
もうひとつの田坐神社
田坐神社は1908年に柴籬神社に合祀され、その後再び旧地に復帰しています。しかし柴籬神社には、現在も田坐神社の社が残されています。柴籬神社の本殿左側に奥に続く通路があり、そこを抜けると「式内 田座神社(原文ママ)」と書かれた石碑と社が存在しています。
御朱印
御朱印 | 書置き |
初穂料 | 300円 |
柴籬神社では、田坐神社のご朱印までもらう事ができます。柴籬神社の祭神は、反正天皇、菅原道真と共に依羅宿禰も祭られています。松原北部において依羅宿禰の存在は大きかったようです。
田坐神社
神社名 | 田坐神社 |
住所 | 大阪府松原市田井城5丁目5 |
祭神 | (推定)依羅宿禰・呉服漢織・八幡神(応神天皇)・豊宇気昆売神 |
摂社 | なし |
旧社格 | 村社 |
式内社 | なし |
祭礼 | 式内小社 |
参考資料 | ・松原の神社 ・松原市ホームページ ・日本書紀 |
アクセス
・公共交通機関
近鉄南大阪線「高見ノ里駅」より北へ徒歩約12分。高見ノ里駅から西に向い「高見学園通」の交差点を北に進みます。北に進み田井公民館の先で右折し、突き当たりで左折して進むと突き当たりになります。そこを右折した先に田坐神社が存在します。
・自動車
田坐神社に駐車場は存在しません。高見ノ里駅周辺のコインパーキングから徒歩がオススメです。
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