南河内の古墳を紹介する「ぶら古墳シリーズ」。今回は、南河内郡太子町山田にある「孝徳天皇陵(山田上ノ山古墳)」です。孝徳天皇といってもあまりピンときませんが、実は大化の改新が行われていたときの天皇なんです。中大兄皇子の存在ばかりに目がいきますが、いったいどのような人物だったのでしょうか?今回は、孝徳天皇とその陵について紹介します。
孝徳天皇とは
父は茅渟王(ちぬのおおきみ)、母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)。皇后である間人皇女(はしひとのひめみこ)は、天智天皇の異母妹にあたります。后である小足媛(おたらしひめ)との間に有間皇子(ありまのみこ)が存在。のちに都を飛鳥から難波宮に遷都しています。
孝徳天皇即位の直前に、皇族による蘇我氏粛清事件である「乙巳の変(いっしのへん)」が起きています。蘇我馬子は、外戚という立場を利用して絶大な権力を掌握。しかし推古天皇や聖徳太子の存命中は、有名な皇族により蘇我氏をある程度抑えていました。
のちに蘇我馬子、推古天皇、聖徳太子が亡くなると、馬子の息子である蝦夷とその息子、入鹿は、自らを天皇のごとく振る舞い、皇族の地位を脅かしはじめます。
蘇我氏の増長を危惧した中大兄皇子は、中臣鎌足とともに蘇我氏排除を計画。中大兄皇子達は、宮廷にて蘇我入鹿を殺害し、それを蘇我蝦夷は自宅で自害に追い込みます。この事件により蘇我氏宗家は滅び、皇族が権力を取り戻します。
その時の天皇である皇極天皇は、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしますが、中大兄皇子はこれを辞退。代わりに皇極天皇の同母弟である軽皇子が36代「孝徳天皇」として即位します。孝徳天皇は、中大兄皇子と共に改革に取り組み、国の制度を整えていきます。いわゆる「大化の改新」です。
しかし孝徳天皇と中大兄皇子の関係は、次第に悪化。中大兄皇子は、大和へ遷都すよう孝徳天皇に進言しますが、天皇はこれを拒否します。これが決定的となり中大兄皇子は、大和の倭京へ去ってしまいました。
孝徳天皇にとってショックだったのは、妻や皇族、群臣の多くが中大兄皇子についていったことでした。難波都に残された孝徳天皇は大きく落胆し、病にかかりそのまま崩御。日本書紀によると「大坂磯長陵」にまつられたとされています。
孝徳天皇陵について
孝徳天皇陵は、直径32mの円墳。周辺にある敏達陵、用明陵、推古陵、聖徳太子墓とあわせて「梅鉢御陵」の一つに数えられています。
古墳名は「山田上ノ山古墳」といい、別名「うぐいすの陵」ともいわれています。清少納言の随筆「枕草子」の一節「陵は、うぐいすのみささぎ…」というは、孝徳天皇陵との説もあります。
宮内庁により管理されており、葺石、埴輪、堀、埋葬施設などの詳細は分かっていません。ただ周辺から「海獣葡萄鏡」という鏡が出土しています。
海獣葡萄鏡
海獣葡萄鏡は、随や唐の時代に流行した鏡。海獣葡萄鏡の出土場所は、よく分かっていません。孝徳天皇陵から出土したとも、孝徳天皇陵の陪塚から出土したともいわれています。
古墳時代後半は、あまり陪塚が築かれなくなっている上、孝徳天皇陵の陪塚らしき古墳は、周辺には存在しません。海獣葡萄鏡と孝徳天皇陵の関係については、不明な点が多く残されます。
薄葬令
孝徳天皇陵は、直径32m程の円墳となっています。同じ太子町にある聖徳太子墓や用明天皇陵は50mを超える古墳であり、比較すると小型化しています。
これは大化の改新に発令された「薄葬令」と関係あるのではと言われています。もともと古墳は墓であると同時に、権力の象徴でした。そのため、大王クラスの古墳は、巨大な古墳を造る必要がありました。
孝徳天皇の時代になると中央集権化が進み、巨大古墳による権力誇示の必要性が低下します。さらに巨大古墳の築造は、人民への負担が大きいため、孝徳天皇の時代に墓の規模に関する基準が定められました。
実際に孝徳天皇陵は、定められた基準内に収まっていません。ただ、他の天皇陵と比較して小規模なのは、薄葬令が影響しているともいわれています。
孝徳天皇の真陵とは
山田上ノ山古墳が孝徳天皇の陵である可能性は、高いと考えられています。しかし、別の古墳を孝徳天皇陵とする説もあります。その根拠としては、日本書紀にある「大坂磯長陵にまつられた」とされる個所です。
かつて、二上山の北に位置する穴虫峠一帯の山は「大坂山」と称されていたと考えられています。大坂山とされる場所は、古墳に利用される凝灰石の産地でもありました。
日本書紀における箸墓古墳築造に関して「墓は昼は人が作り、夜は神が作った。昼は大坂山の石を運んでつくった。」と記されています。
大坂磯長陵の大坂というのは、太子町から穴虫峠を越えて奈良県香芝市逢坂に通じる「大坂道」を指すのではないかと言われています。現在の孝徳天皇陵は、大坂道沿いではなく竹内街道沿いに存在します。この点において、陵墓名と一致しないとの指摘があります。
大坂磯長陵の地名にふさわしい古墳とされるのが「太平塚古墳」とされています。太平塚古墳は、穴虫峠の手前にある古墳で大坂道沿いに存在します。
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太平塚古墳から副葬品などは見つかっておらず、本当の孝徳天皇陵かはわかりません。ただ石室の特徴からかなり身分の高い人物の墓だと考えられています。
現在の孝徳天皇陵
「道の駅 近つ飛鳥・太子の里」に車を停めて、徒歩で孝徳天皇陵へ向かいます。孝徳天皇陵は、日本最古の官道と言われる「竹内街道」沿いに存在します。
古い道標が道の脇に置かれており、かつては多くの人々が行き交っていた名残を感じます。孝徳天皇陵の途中には、竹内街道歴史資料館や旧山本家住宅などのスポットもあり、ぜひ寄っておきたいところです。街道の北側は山になっており、孝徳天皇陵は山腹の少し突き出た平場に築かれています。「山田上ノ山古墳」という古墳名もこの立地が由来といわれています。
孝徳天皇陵の入口になります。南河内で、こんな山の中にある天皇陵は、後村上天皇陵とここぐらいではないでしょうか?運動不足の人間には、辛いところです。
長い参道を上ると遥拝所が存みえてきます。
天皇陵における遥拝所の多くは、鳥居を正面としています。しかし孝徳天皇陵の場合は、山腹の狭小地にあるためか、鳥居の側面から参拝するようになっています。
墳丘をみてみますが、山の斜面がドーンとあり、どこからどこまでが墳丘なのかサッパリわかりません。一方向からしか古墳をみることができないのが少し物足りないところ。
しかし孝徳天皇は、蘇我氏の本拠地である磯長になぜ埋葬されたのでしょうか?孝徳天皇に前後する天皇は、大和に陵が築かれています。理由の一つとして、孝徳天皇の妃の一人が蘇我倉山田麻呂の娘であることが関係するのかもしれません。
蘇我倉山田麻呂は、孝徳天皇の下で大臣の一人として重用されており、孝徳天皇と蘇我氏の関係から磯長に陵が築かれたのかもしれません。ちなみに蘇我倉山田麻呂の墓とされる仏陀寺古墳も孝徳天皇陵のすぐ近くに存在します。
孝徳天皇御陵印
受領場所 | 宮内庁古市陵墓監区事務所 |
住所 | 大阪府羽曳野市誉田6丁目11−3 |
孝徳天皇陵データ
古墳名 | 山田上ノ山古墳 |
宮内庁 | 大坂磯長陵 (おおさかのしながのみささぎ) |
住所 | 大阪府南河内郡太子町大字山田 |
墳形 | 円墳 |
直径 | 32m |
高さ | 不明 |
築造時期 | 7世紀中頃 |
被葬者 | 孝徳天皇 |
埋葬施設 | 横穴式石室(推定) |
出土物 | 不明 |
参考資料 | ・河内の古道と古墳【世界思想社:泉森 皎】 ・太子町の古墳墓【太子町教育委員会】 |
アクセスと駐車場
・公共交通機関
近鉄南大阪線「上ノ太子駅」、もしくは近鉄長野線「喜志駅」下車。金剛バス太子線に乗り「太子町役場停留所」下車。東に石畳で舗装された「竹内街道」が通っているので、道なりに5分程の場所に存在します。
・自動車
孝徳天皇陵に駐車場はありませんが、近くに「道の駅 近つ飛鳥・太子の里」があるので、そこに停めることができます。国道170号外環状線「栗ヶ池大橋西交錯」を東に曲がります。栗ヶ池バイパスを渡り、そのまま府道32号美原太子線を直進。道なりに進むと、「太子交番前交差点」を右折して、国道166号線を東に進みます。道なりに3分ほど走ると左側に「道の駅 近つ飛鳥・太子の里」があります。道の駅から徒歩約5分の場所に存在します。
周辺スポット
・旧山本家住宅 ... 続きを見る
孝徳天皇陵の正面にある古民家。竹内街道を印象づける建物として「国登録有形文化財(建造物)」に登録されています。
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・竹内街道歴史資料館
孝徳天皇陵から徒歩3分ほどの場所にある資料館。日本最古の官道である竹内街道と太子町の歴史を学べます。
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孝徳天皇陵から徒歩5分ほどの場所にある道の駅。地元の特産品が売られている他、周辺には史跡が多く、観光の拠点として便利です。
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孝徳天皇陵から徒歩5分ほどの場所にある古墳。孝徳天皇の重臣である蘇我倉山田麻呂の墓と言われています。
仏陀寺古墳 | 蘇我倉山田石川麻呂の墓とされる古墳〜太子町〜