太子町 太子町の古墳

もしかして蘇我馬子の墓?~太子町~

蘇我馬子

突然ですが、蘇我馬子をご存じでしょうか?蘇我馬子は、古墳時代の大豪族で、臣下としては最高位にあたる大臣(おおおみ)として、推古天皇を補佐した人物なんです。




そんな大豪族の墓と伝わる場所が、太子町に存在します。果たしてその場所は、蘇我馬子の墓なのか?今回は太子町にある「伝:蘇我馬子の墓」を紹介します。

蘇我馬子とは

もともと蘇我氏は、神功皇后や応神天皇に仕えた「武内宿禰」の末裔といわれています。

室宮山古墳

武内宿禰の墓と伝わる「室宮山古墳」

蘇我氏が本拠地とした場所はいくつか候補がありますが、その一つに「石川郡」が挙げられます。




石川郡は、太子町、河南町、千早赤阪村富田林市の一部を含めたエリア。この石川郡には、蘇我氏にゆかりの深い天皇陵がいくつも存在することから、蘇我氏は、石川郡に何らかの影響力を有していたようです。

推古天皇陵

太子町にある「推古天皇/山田高塚山古墳」

蘇我氏が台頭し始めたのは、蘇我馬子の父である蘇我稲目の時代。蘇我稲目は、同じく有力豪族の一つ物部尾輿と対立関係にありました。

その対立は次の世代にも引き継がれ、息子の蘇我馬子も物部尾輿の息子である物部守屋と対立。のちに宗教問題、天皇の後継者問題などが重なり、両者はついに武力抗争へ。




蘇我馬子と物部守屋は、物部氏の本拠地である河内国渋川郡(現在の八尾市一帯)で激突。蘇我馬子は苦戦を強いられますが、なんとか物部守屋を討ち果たすことに成功します。

物部守屋

八尾市にある物部守屋の墓

ライバルである物部氏を滅ぼしたことで、蘇我氏に対抗できる豪族は消え、蘇我馬子はヤマト王権において強い権力を有しました。のちに蘇我馬子は、敏達天皇の跡を継いだ崇峻天皇と対立したため、崇峻天皇を暗殺。

歴史上初めての臣下による天皇殺害が起こりますが、大きな批判につながらなかったことから、蘇我氏の力がうかがえます。




その後蘇我馬子は、聖徳太子とともに推古天皇を補佐し、冠位十二階や十七条憲法などを制定。ヤマト王権の中央集権化に尽力しました。

蘇我馬子は、626年に死去。日本書紀によると「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」と記されています。ただ、桃源墓がどこだったのかについては諸説があり、定まっていません。

伝:蘇我馬子の墓へ行ってみました

蘇我馬子の墓と伝わる場所は、太子町の西方院のすぐ近くに存在します。

西方院

太子町にある西方院

西方院は、聖徳太子が亡くなった622年に建立されたと伝わる寺院。蘇我馬子、物部守屋、小野妹子の娘達が剃髪し、太子廟の前にお堂を建てたことが由来とされています。




そんな訳で、西方院も蘇我馬子にゆかりの寺院になりますね。

西方院から東に歩き、静かな住宅地を進むと「伝:蘇我馬子の墓」が存在します。墓といっても古墳ではなく「多宝塔」「大きな椿」「石碑」で構成された小さな区画。

伝:蘇我馬子の墓全景

こちらの多宝塔は、かなり古い時代に建てられたようですが、いつ建てたものなのかは不明。凝灰石で作られたものなので、二上山から産出された凝灰石なのかもしれません。

伝:蘇我馬子の多宝塔

この大きな椿は樹齢350年ほどということで、江戸時代前期に植えられたことになります。

伝:蘇我馬子の椿

伝:蘇我馬子の椿

石碑には「植木家墳墓」と題名があり、以下の内容が記されています。

伝:蘇我馬子の石碑

この墳は古くから土地の人々によって蘇我馬子の塚と言い伝えられております。しかし「建久四年古図」(西暦1193年)には妹子大臣塚(小野妹子)と記されており、真実は定かではありませんが、蘇我氏一族ゆかりの地に霊を祀る遺跡と思われます。間口5.4メートル、奥行6.5メートルの中央にある椿の木は、樹齢350年とも言われ御神木であります。又、多層塔は高さ1.9メートルで凝灰石を六石積んで構成されておりますが、風化著しく、この度修復いたしました。
平成17年6月吉日
植木 要

果たしてこの場所は、蘇我馬子の墓なのでしょうか?問題は、蘇我馬子が祭られた「桃源墓」がどこかという点です。




現在、蘇我馬子の墓として有力な場所は、奈良県明日香村にある「石舞台古墳」。根拠として、古墳の築造時期、規模などから蘇我馬子の墓としてふさわしいとされています。

石舞台古墳

奈良県明日香村にある「石舞台古墳」

では太子町にあるこの場所が、なぜ蘇我馬子の墓と伝わっているのか。富田林市史によると、1678年に記された「聖徳太子伝歴備講」に以下の記録があるります。

桃源墓トハ河内国石川ノ東条ナリ。太子ノ御廟ノ東南ノ方ナリ

この東条にある墓というのは、現在の「小野妹子の墓」を指します。江戸時代においてどれだけ信じられていたかは不明ですが、小野妹子の墓が蘇我馬子の墓と認識されていた時期があったようです。

小野妹子の墓

太子町東条にある「小野妹子の墓」

一方で、植木家墳墓の石碑にも、多宝塔の建つ場所が「小野妹子の墓」されていたとも記されています。つまり、蘇我馬子と伝わる場所が小野妹子の墓と認識され、小野妹子の墓が蘇我馬子の墓とされていた時期かあったことになります。

もしかすると「うまこ」と「いもこ」の響きが似ており、時代が経つにつれゴッチャになったのかもしれません。

実際に、この多宝塔の建つ場所が蘇我馬子の墓である可能性というのは低いようです。太子町誌においても「この向小路の多層塔が言い伝え通り、蘇我馬子の墓と考えるには全てに無理があろう」と記されています。




それでは、何のためにこの多宝塔が建てられたのか?この点については全く不明で謎に包まれています。果たして誰が、何のために作られた場所なんでしょうか。非常に興味深いところです。

まとめ

伝:蘇我馬子の全景

今回は南河内郡太子町にある「伝:蘇我馬子の墓」を紹介しました。この地は蘇我氏にゆかりの深い土地柄であることから、蘇我馬子を供養するために建てられたものかもしれません。

訪問時も多宝塔の前には花が添えられており、地元の方たちに大切にされているようでした。

アクセスと駐車場

公共交通機関

喜志駅

近鉄長野線「喜志駅」下車。駅東口より金剛バス「喜志循環線」もしくは「太子線」に乗り「聖徳太子御廟前」下車。バス停から南にある西方院へ続く階段を登ります。つきあたりを右に歩き、道なりに2分ほど歩くと左側に存在します。

自動車
伝:蘇我馬子の墓に駐車場はありません。伝:蘇我馬子の墓から徒歩5分ほどの場所にある「太子なごみの広場」から徒歩がおすすめです。

周辺スポット

西方院

西方院

伝:蘇我馬子の墓から徒歩2分ほどの場所にあるお寺。聖徳太子が死去した後に出家した3人の侍女により、創建されたとされています。

叡福寺

叡福寺

伝:蘇我馬子の墓から徒歩5分ほどの場所にあるお寺。境内にある聖徳太子廟を守るために創建されたと伝えられています。

用明天皇陵/春日向山古墳

用明天皇陵

伝:蘇我馬子の墓から徒歩10分ほどの場所にある古墳。梅鉢御陵の一つで、聖徳太子の父である用命天皇の陵とされています。

仏陀寺古墳/伝蘇我倉山田石川麻呂墓

仏陀寺古墳

伝:蘇我馬子の墓から徒歩10分ほどの場所にある古墳。7世紀後半頃に築造されたとされる終末古墳。乙巳の変に加わった蘇我倉山田石川麻呂の墓ともいわれています。

伝:蘇我馬子の墓データ


住所:大阪府南河内郡太子町太子1521
参考資料:太子町誌・富田林市史

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