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高屋城の戦い|織田信長が羽曳野にやって来た!〜羽曳野市・アクセス〜

織田信長と言えば戦国時代を代表する武将ですが、東海地方や近江(滋賀)、山城(京都)を中心に活躍した印象が強いのではないでしょうか。




一方で河内における戦国時代というのはどうだったのか?これがもう、将軍、管領、守護、守護代、国人、宗教が入り乱れるスーパーカオスな時代でした。

実は南河内国にも織田信長が攻めてきたという記録があります。その場所は羽曳野市古市にある「高屋城」

信長は一体誰と戦い、何のために羽曳野の地までやってきたのか・・・。今回は「高屋城の戦い」を紹介いたします。

何をしに信長は来たのか

信長が来る直前の河内はどのような状況だったのか?

1564年、近畿圏に最大の領土を築き上げた戦国時代の実力者、三好長慶が死去。長慶の死後、その支配圏をめぐり長慶の後継者である三好義継、松永久秀、三好三人衆、河内守護である畠山家が争いを始めました。しかし1568年、信長が足利義昭を将軍に擁して京都に上洛して以降、状況が変化します。

三好義継、松永久秀、畠山家は信長に味方。三好三人衆は信長に抵抗し続けていました。




状況が変わっったのは1573年。足利義昭と信長の関係が悪化すると畠山家以外の勢力は信長に対抗することで一致。信長と対立していた本願寺とともに戦いを始めます。

それに対し信長は1573年に抵抗勢力の討伐に動きます。三好三人衆をけちらし、北河内の三好義継を若江城の戦いで自害に追い込みます。松永久秀も多聞城の戦いで破れ降伏します。

こうして北河内は信長の支配下に置かれます。しかし南河内は三好家の生き残りである三好康長と、信長派であった主君、畠山昭高を殺害した遊佐信教が高屋城に篭り抵抗を続けていました。

1574年に足利義昭の呼びかけにより近畿の反信長派が再び活発化。若江城で敗れた残兵、阿波、摂津、紀伊の反信長派が挙兵し高屋城の遊佐信教もこれに加わります。




それに対して信長は柴田勝家・筒井順慶・明智光秀・細川藤孝・荒木村重という重量級の部将を派遣して鎮圧にあたりますが、完全にこれを鎮める事は出来ませんでした。(第一次高屋城の戦いとも言われます)

その後、長島一向一揆を壊滅させた信長は再び、南河内の抵抗勢力排除を決意します。1575年、信長は高屋城にこもる三好康長達を討つために京都から出陣します。

高屋城の戦い

戦いの推移
4月6日 信長京都から出陣。

4月7日 東大阪の若江城へ入城。

4月8日
高屋城の東側、杜本神社に近い羽曳野市駒ヶ谷山に布陣。高屋城の三好康長は不動坂口より出撃し、織田軍と激しい戦いを繰り広げます。織田軍は高屋城周辺を焼き討ちにしたと言われています。

高屋城

4月12日
織田信長は一部の兵を高屋城包囲に残し、陣を住吉に移動。ここで各地から援軍が集まり、織田軍は10万の大軍になります。

4月16日
信長軍は東住吉区にある香西長信、十河一行の守るの新堀城付近に移動。新堀城は本願寺の石山寺と高屋城の間にあり、2つの勢力を援護する場所にありました。

4月17日~19日
信長軍は新堀城を攻め落とし、十河一行は討ち死に、香西長信は捕まり処刑されます。

新堀城の落城により有力な味方である本願寺との連携が取れなくなった事により、三好康長は抵抗を断念。新堀城落城後に三好康長は降伏。信長は三好康長を許し高屋城の戦いは終結します。

信長としては守りが堅い高屋城を力ずくで攻めるよりも、新堀城を落とすことにより、高屋城を孤立に追い込み降伏すると狙っていたのかも知れません。

高屋城のもう一人の有力部将である遊佐信教は行方不明に。一説によると高屋城から逃げ延び本願寺側の部将として戦い続けたと言われています。

この戦いの後、高屋城は廃城となり河内の権力の象徴であった高屋城は歴史の舞台から消えることになります。



高屋城とはどんな城だったのか

播磨国なら姫路城、和泉国なら岸和田城など、それぞれの土地にはその土地を代表するお城があります。




では河内国を代表するはどこなのか・・・それが高屋城なのです。しかし現在の高屋城跡はほとんど住宅地となっており、城があった面影はほとんど残っていません。地元でも「高屋城」と言われてもわからない人が多く、知名度はあまり高くありません。

そんな高屋城は応仁の乱で頭角を現し、河内を実力で奪い取った畠山義就が築いたと言われています。(諸説あり)

その高屋城は中々罰当たりなことに安閑天皇陵を利用して築かれています。
安閑天皇陵

安閑天皇陵
安閑天皇陵部分は本丸にあたり、二ノ丸、三ノ丸は現在住宅地になっています。

昔は古墳を城として利用する事は時々あり、藤井寺市にある津堂城山古墳なども城として利用されています。周りにちょうど濠がめぐらされているので守りやすいのでしょうね。

安閑天皇陵

城の規模は南北800m、東西に450mに広がっており、河内国おける城では最大の規模です。立地は高さ47mほどの小高い丘の上にあり、東の石川や断崖に守られた強固な城でした。

高屋城は交通の要衝としても重要な場所に作られています。京都から高野山へ向かう東高野街道を城内に引き込み、城のすぐ北側には東高野街道と大阪から奈良へ向かう重要な街道「竹内街道」が交差しています。




おそらく通行料を徴収したり情報収集うなどを行っていたと思われます。

今でも東高野街道沿いには旧170号線が走っており、交通量は多いエリアです。

高屋城の遺構はほとんど残っていませんが、名残のようなものだけは若干見つけることができます。

こちらが信長軍と激しい戦いが繰り広げられたという本丸北側の不動坂口です。両側が高い土塁に挟まれており、入り口が狭く細長いので守りやすかったと思われます。
高屋城不動坂口

坂の上には、入り口の名前となったと思われる不動明王が祭られた祠があります。

不動明王

土塁の一部が保存されています。城跡らしい部分と言えばここぐらいではないでしょうか。

高屋城

不動坂口を南に下ると姥不動堂と呼ばれる祠があります。このあたりが二の丸になります。城跡らしいものは何もありませんが、高屋城跡の説明版や由来標のようなものがあります。

姥不動堂

姥不動堂

駒ヶ谷山と高屋城の中間地点です。こちらが駒ヶ谷山側からみた高屋城。中央のこんもりとした山が高屋城付近です。

こちらが高屋城側からみた駒ヶ谷山です。

織田信長と三好康長はお互いこの光景を見ていたのかもしれませんね。

まとめ

信長が高屋城の戦により反抗勢力を一掃したことにより、河内国で続いていた動乱はひとまず収束します。




高屋城データ(安閑天皇陵)


住所:大阪府羽曳野市古市5丁目6
アクセス:近鉄南大阪線 古市駅より南へ約10分
駐車場:近くに駐車スペースはありませんので、古市駅付近のパーキングに停めるのが便利です。


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