太子町「叡福寺」内にある「叡福寺北古墳」は、聖徳太子を祭る「聖徳太子廟」として知られています。
叡福寺北古墳は、羽曳野市東部、太子町、河南町一帯に広がる「王陵の谷」に存在する古墳で、宮内庁により「聖徳太子の墓」とされています。
その聖徳太子廟には「太子廟の七不思議」なる言い伝えが残っています。七不思議とはどんな不思議なのか…今回は聖徳太子の墓にまつわる七不思議と叡福寺北古墳について紹介します。
聖徳太子とは
一般的に「聖徳太子」と呼ばれていますが、本来は「厩戸皇子」と言います。「厩戸」とは「厩舎」の事でいわゆる「馬小屋」を指します。
「厩戸」の由来ついては「母親が馬小屋の近くで産気づいたから」「義父である「蘇我馬子」の家で生まれたから」など諸説がありますが、実際はよくわかっていません。
聖徳太子の父は用明天皇、母は欽明天皇の第三皇女である穴穂部間人皇女。妻は蘇我馬子の娘である刀自古郎女など4人。子に山背大兄王など多数。叔父に敏達天皇、崇峻天皇。叔母に推古天皇、義父に蘇我馬子を持ちます。
血統は天皇の皇子にして、最有力者である蘇我馬子が後ろ盾。記憶力に優れ、優秀かつ人格者と言うパーフェクトぷり。
聖徳太子は十七条の憲法、冠位十二階などを制定し天皇を中心とした中央集権化を推進。また蘇我馬子と共に、廃仏派の物部守屋を八尾付近の戦いで撃破(丁未の乱)。その後は各地に寺院を建立し仏教の普及につとめています。
国際的には小野妹子を遣隋使として派遣し隋の皇帝にキレさせたり、随から貰った国書を小野妹子が無くしてブチキレる等…様々な功績がありますが、その解説と意義を書いていると無限に長くなるので割愛します。
様々な功績を残した聖徳太子は、622年に亡くなり叡福寺北古墳に祭られます。
聖徳太子廟がこの地に決まった伝説
かつて太子町一帯は、蘇我氏の地盤でした。聖徳太子は蘇我氏との強い関係があったため、この地に祭られたと考えられています。
一方でこの地に太子廟が築かれた経緯について、別の伝説も伝わっています。聖徳太子は諸国から献上させた良馬の中に四脚が白い「黒駒」を発見し、自らの馬とします。
黒駒は聖徳太子を乗せると天高く飛び上がり、全国を巡回し3日で都まで帰ってきたそうです。もはや馬というよりペガサスですね…。
聖徳太子が黒駒で富士山へ登った時、遥か河内方面に五色に輝く光を発見。そここそ自分の墓を作る場所と考え、河内の国へやってきます。
河内で輝く場所を探していると、太子町にある「五字ケ峯」と言う山が富士山から見えた場所だと判明。そこで聖徳太子は「五字ケ峯」のふもとを自らの墓と定め、叡福寺北古墳を築造したと言われています。
叡福寺北古墳とは
墳丘は直径約50m、高さは11mの円墳。古墳の築造時期は7世紀後半と考えられており、考古学的にも聖徳太子が祭られている可能性が高いとされています。
古墳を守るように建てられている叡福寺は、聖徳太子の叔母である推古天皇が土地と建物を寄進し墓守が住む堂を建てた事が創建とされています。
叡福寺北古墳は横穴式石室を持ち、古墳の南側に入り口が存在します。石室内には3つの石棺があり、聖徳太子、聖徳太子の母である穴穂部間人皇女、妻である膳部菩岐々美郎女の三人が埋葬されていたと考えられています。一つの古墳に3人を祭っている事から三骨一廟とも呼ばれています。
明治時代までは石室内部に入る事ができましたが、現在入り口は宮内庁により封印され、誰も入ることが出来ません。
太子廟には外の古墳には見られない「結界石」と呼ばれる石版が周囲んでいます。結界石は上下二段あり、それぞれ「中段結界石」・「下段結界石」と呼ばれています。
「結界石」は築造時には存在せず、17世紀頃に付け加えられたと考えられています。中段結界石448基、下段結界石478基あるそうです。
古墳の周囲には柵があり入れませんが、その外側には小径がありグルッと一周できるので「結界石」を確認する事ができます。
太子廟の七不思議
聖徳太子は歴史上の人物の中でも特に崇拝されている事もあり、普通では考えられない出来事が太子廟に伝わっています。
不思議1
樹木が生い茂った御廟内には、松や笹が生えない。
確かに松は生えていないようでした。笹は生えていてもおかしくありませんが、多分生えてないように思えます。
不思議2
鳥が巣を造らない。
見てわかるものでもないんですが、周囲に鳥は飛んではいませんでした。鳥も遠慮する謎のオーラが出ているのかも知れません。
不思議3
大雨が降っても御廟の土が崩れない。
多分、あれだけ木が茂っていたら、少々の大雨ぐらいでは崩れないような気も…。
不思議4
御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
スミマセン流石に何度もどころか、1回でも数える気力はありませんでした・・・
不思議5
メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、
太子の予言どおりに死後430年後の天喜2年(1054年)に発見された。
御記分がどれのことか分かりませんでした。
不思議6
御廟の西にあるクスノキは、
母后を葬送したときに、
太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を
挿したものが芽をふき茂った。
そもそも轅が何か分からなかったのですが、棺を担ぐときに出てる棒の部分なんですね。ちなみにどのクスノキなのかがわかりませんでした。
不思議7
894年に法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、
その遺骸は生きているように温かくやわらかだった。
康仁大徳さん、さすがにそれは話を盛り過ぎでは!!
半分ぐらい確認できなかったので何をしに行ったのかわかりませんでしたが、聖徳太子という人物がいかに尊敬され、もはや神と同レベルに扱われているというのがよくわかるエピソードですね。
アクセス
近鉄長野線「喜志駅」または近鉄南大阪線「上ノ太子駅」から金剛バス太子線・喜志循環線「太子前」バス停下車徒歩約3分になります。聖徳太子廟は磯長谷古墳群の中にあるだけあり、周辺には天皇陵を含む古墳が数多く存在します。
すぐ東には近くには聖徳太子の父である「用明天皇陵」。南には叔父の「敏達天皇陵」南東には叔母の「推古天皇陵」が存在します。
また、推古天皇陵の東には聖徳太子と関わりが深かった小野妹子の墓も存在します。
叡福寺から東へ向かい竹内街道沿いには「竹内街道歴史資料館」がありますので、先に磯長谷古墳群について調べてから観光してみるのもいいかも知れません。
叡福寺北古墳データ
住所:大阪府南河内郡太子町大字太子(叡福寺境内)
古墳名:叡福寺北古墳
通称:聖徳太子廟
宮内庁名:磯長墓
墳形:円墳
築造時期:7世紀前半
全長:直径50m
高さ:11m
埋葬者:聖徳太子(厩戸皇子)