昔から地域を守り続ける神社を紹介する「となりの鎮守様」シリーズ。今回は、河内長野市鳩原にある「川上神社」です。
川上神社とは
川上神社の詳しい創建は分かっていませんが、元々は「鳩原神社」と称していました。明治時代に、河合寺、神が丘、寺元、小深、太井、石見川地区から神社を合祀して「川上神社」と称するように。
鳩原と言う地名には、古い言い伝えが残されてます。699年、この地から文武天皇へ白鳩が献上されると、喜ばれた天皇は錦織部(河内長野市から富田林市南部)の税をなんと1年間無税に。この事からこの地を「鳩原」と呼ぶようになったと言われています。
鳩原地区はかつて、観心寺が所有していた荘園の一つでした。歓心寺文書によると、歓心寺の三世住職「眞紹律師」が歓心寺奥の院を鳩ノ原に建立したとあります。現在、境内の弥勒堂が建つ場所には観心寺奥の院があり、眞紹律師はここで余生を過ごしたとのこと。川上神社の裏山には一つの石塚が存在し、眞紹律師の墓ともいわれています。
石塚は長慶天皇の陵という説?
眞紹律師の墓とされている石塚ですが、実は後醍醐天皇の孫である「長慶天皇の御陵」という説もあります。長慶天皇は南北朝時代後半に活躍した天皇。北朝に対して比較的穏健派であった後村上天皇が亡くなると、強硬派の長慶天皇が即位します。この頃の南朝は政治的な指導者である北畠親房が亡くなり、凋落の一途をたどっていました。
この時期、南朝を軍事的に支えていた楠木正成の三男である楠木正儀でした。楠木正儀は後村上天皇からの信望が厚く、北朝に対して融和路線でしたが、強硬派の長慶天皇が即位したことにより、孤立してしまいます。
南朝の存続をはかるため楠木正儀が下した決断は、何と妻子を残して北朝への投降でした。楠木正儀は北朝の力を利用して強硬派を排除を狙い、南朝を存続させようと考えたようです。
長慶天皇を中心とした強硬派は楠木正儀の投降によりパニック。結局、楠木正儀率いる北朝方に攻められ、南朝の首脳部は吉野まで逃げる事に。これ以後、南朝は組織的な抵抗力を失い、ゲリラ戦レベルまで戦力は激減しました。
その後、北朝内でもすったもんだがあり、楠木正儀が再び南朝に帰参。南朝を裏切った楠木正儀を受け入れざる得ないほど弱体化した南朝は、再び融和路線へ。
強硬派の長慶天皇は退位し、融和派であった弟の後亀山天皇が即位。その後、長慶天皇は表舞台から消え、いつ、どこで亡くなられたのか分かっていません。
現在、長慶天皇の陵は宮内庁により京都にある「嵯峨東陵」とされています。長慶天皇の御陵を定める作業は困難だったようで、実際に嵯峨東陵に長慶天皇が埋葬されているのかはわかっていません。
長慶天皇の晩年については不明な点が多く、長慶天皇の陵とされる場所は全国に27ヶ所も存在。川上神社の石塚はその27ヶ所の1つとされています。さて、真偽のほどはいかに…
現在の川上神社
ネットで調べても、グーグルマップで探しても車を停めるところがあるのか分からなかったので、不安を抱きつつ訪問しましたが「P」という文字を発見。ホッとして神社の方へ進むと「エッ、これを進むの?」と言う細く急な坂が現れ、ドキドキしながらその先にある駐車場に停めました。写真では伝わらないと思いますが、特に帰りは怖かったです・・・
川上神社は集落の中でも少し高いところにあり、鳥居からの眺めが美しく、しばらくボーっと奥河内の景色を堪能。
駐車場と社務所の間にある参道を進むと拝殿へ通じています。
しかし、これでもかというぐらい大量の「のぼり」が。静かな場所なので、これぐらい賑やかなぐらいが良いのかもしれません。
拝殿の両脇にある道を登ると、摂社である鬼住神社、恵美須神社と本殿が存在。
眞紹律師の墓、もしくは長慶天皇の御陵とされる石塚は、この本殿の裏山に存在します。
川上神社では毎年10月に「稚児相撲」が開催されます。「稚児相撲」とは満1歳を迎えた子供が、親に抱かれて出場。行事の立ち会いのもと、名前を呼ばれた出場者は本殿の前でにらみ合い、どちらか泣いたら勝敗が決まるとのこと。これは子供の一生の健康と幸福を願う行事だそうで、普段静かな境内もこの日は大いに賑わうそうです。
川上神社データ
神社名 | 川上神社 |
住所 | 大阪府河内長野市鳩原788 |
祭神 | 素盞嗚尊 |
摂社 | 鬼住神社、恵美須神社 |
旧社格 | 不明 |
式内社 | なし |
祭礼 | |
参考資料 | 大阪府神社名鑑 |
アクセスと駐車場
近鉄長野線または南海高野線「河内長野駅」より南海バスで「川上神社前」下車すぐ。車の場合は神社に駐車場あり。
周辺スポット
・観心寺