南河内は、楠木正成の出身地ということもあり、正成ゆかりの地が多く存在します。富田林市甘南備にある「楠妣庵観音寺(なんぴあんかんのんじ)」もその一つ。このお寺は、楠木正成の妻である久子が、夫や子供たちを供養するために晩年を過ごしたと伝わっています。
久子は、なぜここで晩年を過ごすことになったのか?それは、楠木家を襲う悲運が理由にあります。楠木家にはどのような悲運があったのか?今回は、富田林市甘南備にある「楠妣庵観音寺」を紹介します。
楠木家と楠妣庵観音寺
鎌倉時代末期にはいると政治が乱れ、朝廷、武家、民衆たちに不満が増大します。そんな中、幕府に不満を抱いていた後醍醐天皇の一派は、倒幕を計画。しかし、計画が幕府に漏れたため、都より脱出して笠置山にて挙兵。これに真っ先に駆けつけたのが、河内に本拠地をもつ楠木正成でした。
楠木正成の出自については、詳しく分かっていません。家族として、弟に「正季(まさすえ)」、息子に「正行(まさつら)」「正時(まさとき)」「正儀(まさのり)」が知られています。
寺伝によると楠木正成の妻は「久子」とされ、甘南備の豪族「南江正忠」の妹といわれています。1323年に正成に嫁ぎ、上記3人の息子をもうけました。ただ、久子については、一時資料としての記録はないため、詳細についてはよくわかっていません。
倒幕後も楠木正成は、後醍醐天皇に河内国守護に任じられるなど、厚く遇されます。しかし公家を中心とした「建武の新政」が行き詰まると、武家を中心に不満が増大。やがて武家の棟梁たる足利尊氏が朝廷から離反し、朝廷と激しい戦いを繰り広げます。
1336年に足利尊氏と楠木正成・新田義貞の連合軍が、神戸の湊川で激突。楠木正成は奮戦するものの、兵力差による劣勢を覆せず自害に至りました。湊川の戦いで敗れたことで、京を追われた後醍醐天皇は、奈良県の吉野に拠点を移し足利尊氏に対抗。
一方の足利尊氏は、新たに天皇を擁立して自らの正統性を主張します。これにより朝廷は、後醍醐天皇の南朝と、足利尊氏が擁する北朝に分裂。長い南北朝時代を迎えます。足利尊氏は、敵対していたとは言え楠木正成を尊敬していました。尊氏は丁重に首級を家族に返還したといわれています。
返還された首級を見た息子の正行は、ショックのあまり父の形見の短刀で自害を試みます。しかし母の久子に諭され、父に代わって南朝を支える決意。楠妣庵観音寺には、このシーンを再現した2人の像が置かれています。
その後、楠木正行は南朝を軍事面で支える有力武将として活躍。各地で足利軍を打ち破り、南朝勢力の回復に努めます。足利尊氏は南朝勢力の拡大を警戒し、腹心の高師直に南朝制圧を指示。大軍を率いた高師直を、楠木正行は四條畷にて迎撃を試みます。しかし圧倒的な兵力差に楠木正行は敗北。弟の楠木正時と共に自害を選びました。
相次ぎ父と子を失った久子は「敗鏡尼」と名乗り出家。故郷の甘南備に草庵を建て、一族の菩提を弔ったことが「楠妣庵」の由来とされています。元々この場所には「観音殿」建てられていました。楠木正行の弟である楠木正儀は、敗鏡尼の没後に「観音寺」と改めて、一族の菩提寺としたといわれています。寺名である「楠妣庵観音寺」はこの2つの建物が由来となっています。
南朝が衰えて以降、楠妣庵観音寺は兵火に巻き込まれて荒廃していました。その後1917年(大正6年)に楠妣庵が再興。続く1922年(大正11年)に、観音寺の本堂も再建され、現在に至ります。
現在の楠妣庵観音寺
楠妣庵観音寺は富田林市の最南部にあり、楠木正成にゆかりの深い河内長野市の観心寺までは、10分程の場所。楠妣庵観音寺は、拝観料として200円必要となっています。お寺の山門は、2ヶ所ありますが東側が正面と思われます。東側山門にある「楠公史跡河南八勝」の碑。楠木正成にゆかりのある8ヶ所に置かれていますが、どのような経緯で建てられたのか不明という謎の石碑です。
楠公史跡河南八勝の隣には、楠木正行と久子の像。わりと、ガッツリ指導が入っている雰囲気。
山門に通じる急角度の階段の途中にある「楠木正成像」。楠木正成像は、皇居前、観心寺、湊川神社などにも置かれていますが、これらと比べると、独創的なスタイルとなっています。
階段を登りきったところにある山門は、もともと山梨県塩山恵林寺塔頭青松軒にあったものでした。しかし本坊が焼けて山門だけになったため、昭和39年に行われた楠公夫人600年祭に移築されたとのこと。
山門をぬけ右側にあるのが、観音寺の本堂。楠木正儀は、この観音寺に「藤原藤房」を住まわせたといわれています。藤原藤房は、倒幕前から後醍醐天皇に付き従い、建武の新政では要職に就いていた人物。しかし1333年に突然出家し、表舞台から消えたという不思議な人です。藤原藤房の出家後については、各地に伝承が残されており、観音寺に住まわせたのもその一つです。
山門正面にある昭和3年に建てられた「恩光閣」。昭和天皇の御大典(即位の礼)にて下賜された御用材にて建てられたとのこと。明治時代になると楠木家は、天皇に忠義を尽くした一族として特別視されます。大正時代に楠枇庵観音寺が再興されたのも、そのような背景からと思われます。
境内の南側は、すこし丘のような高台になっています。
この高台の階段下に「加藤鎮之助」と刻まれた銅像が存在。加藤氏は岐阜県出身の人物で、私財を投じて楠枇庵観音寺を再建したといわれています。
階段の上は、久子ゆかりの場所となっています。
久子が、16年間一族の菩提を弔った「楠妣庵」。ちなみに楠妣庵の「妣」とは「偉大なる人の母」という意味だそうです。兵火で荒廃していたため、大正6年に再建。帝室技術員の伊藤忠太工学博士が、創建時の様式にそって再建したとのこと。
久子の念持仏である、十一面観世音を本尊とした「観音堂」。楠妣庵と同じく、伊藤博士の設計により再建されています。
61歳で亡くなったとされる「久子の墓」。かつては荒廃していましたが、大正4年に修復。
隣に建てられているのは、楠木一族の供養塔になります。
ちなみに、裏門から一度境内を出て、少し坂を下ったところに「楠妣泉」があります。こちらは「久子」が利用した泉とのこと。今でも水が湧き出しているそうです。
まとめ
久子が実在したがは不明ですが、正成の妻は、楠木家を支える強い意志があったようです。しかし忠義のために夫と息子を失ったという悲しみは、計り知れなかったでしょう。晩年を過ごしたという小さな庵を見ていると、南朝に最後まで尽くした楠木家の悲運を感じさせます。楠妣庵観音寺の境内は緑豊かで、紅葉の時期には美しい光景が広がっています。楠木一族の歴史を感じながら、ゆっくりと参拝するのもいいのではないでしょうか。
御朱印
御朱印 | 手書き |
初穂料 | 300円 |
楠妣庵観音寺データ
寺名 | 楠妣庵観音寺 |
拝観料 | 200円 |
住所 | 大阪府富田林市大字甘南備1103 |
山号 | 峰條山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
本尊 | 千手観音 |
開祖 | 楠木正行、楠木正儀、久子 |
札所 | ・河内西国霊場第二十番札所 ・楠公史跡河南八勝 第二蹟 |
参考資料 | パンフレット・境内案内板 |
アクセスと駐車場
・公共交通機関
近鉄長野線「富田林市駅」下車。金剛バス「東條線」に乗車し「甘南備停留所」下車すぐ。
・自動車
外環状170号線「新家交差点」を東へ曲がります。しばらく直進し「板持南交差点」を右折し、府道201号甘南備川向線を南に直進。道なりに進むと「左/甘南備・右/観心寺」の看板が見えるので左折。道なりに少し走ると楠妣庵観音寺の看板が見えます。駐車場は2カ所あり、手前は広いですが入口まで少し歩く必要があります。奥の駐車場は少し停めにくいですが、入口の近くにあります。
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