南河内の古墳を紹介する「ぶら古墳シリーズ」。今回は、河内長野市寺元にある「檜尾塚陵墓参考地(ひのおづかりょうぼさんこうち)」です。正確には、南北朝時代に作られたもので古墳ではありません。
陵墓参考地という名前の通り、皇族ゆかりの陵墓とされていますが、被葬者は分かっていません。ただ、阿野廉子もしくは長慶天皇の陵墓との説があります。謎に包まれた檜尾塚陵墓参考地とはどのような場所なのか?今回は河内長野市寺元にある「檜尾塚陵墓参考地」を紹介します。
陵墓参考地とは
そもそも「陵墓参考地」とは、どんなものでしょうか。大辞林によると「天皇や皇族を埋葬した可能性はあるが、特定に至る資料が存在しない墳墓。」とされています。2府16県に46カ所存在し、宮内庁により管理されています。そのため、天皇陵同様中に入ることはできません。
南河内には、檜尾塚陵墓参考地の他に
「藤井寺陵墓参考地(津堂城山古墳)」
「大塚陵墓参考地(河内大塚山古墳)」
「コウボ坂陵墓参考地」
計4カ所が陵墓参考地に指定されています。
陵墓参考地ということで「多分この人じゃないかな?」という被葬候補者が存在します。藤井寺陵墓参考地は「允恭天皇」、大塚陵墓参考地は「雄略天皇」、コウボ坂陵墓参考地は「阿野廉子(あのれんし)」とされています。
ただ、宮内省が比定する天皇陵があまり当てにならないのと同様、陵墓参考地の被葬候補者もかなり怪しいと考えられています。藤井寺陵墓参考地も、大塚陵墓参考地も古墳の築造時期と被葬候補者が活躍した時代が合いません。ただ、コウボ坂陵墓参考地については比較的可能性が高いとされています。檜尾塚陵墓参考地は、1931年(昭和)6年11月6日に陵墓参考地にされています。
被葬候補は阿野廉子?
檜尾塚陵墓参考地の被葬候補として挙げられているのが「阿野廉子」です。阿野廉子の陵墓参考地は「コウボ坂陵墓参考地」と「檜尾塚陵墓参考地」の2つ存在するのです。阿野廉子は、鎌倉時代末期に活躍した後醍醐天皇の側室。後醍醐天皇を支え、建武の新政に貢献した才女としてしられています。太平記では、義良親王の失脚に加担した悪女として扱われており、一般的には良いイメージがありません。
正室の子である義良親王は、後醍醐天皇の有力な後継者でした。阿野廉子としては、自分の息子である義良親王(後の後村上天皇)を跡継ぎにしたいという思惑があったと思われます。阿野廉子は1359年(正平14年/延文4年)4月、河内長野市にある観心寺で崩御。コウボ坂陵墓参考地は、観心寺内にあることから、こちらのほうが陵墓としては可能性が高いとされています。ただ、本当の陵墓は、同じく観心寺の境内にある「楠木正成の首塚」周辺ともいわれています。
檜尾塚陵墓参考地は、観心寺にほど近い山の中に存在します。なぜこちらも阿野廉子の陵墓参考地となったかはよくわかっていません。
もう一人の被葬候補者長慶天皇
檜尾塚陵墓参考地には、もう一人、被葬候補者がいます。その人物は「長慶天皇」。長慶天皇は、後村上天皇の息子で、阿野廉子から見ると孫にあたります。長慶天皇に関しては、資料が少なく不明な点が多いのですが、北朝に対して非常に強硬派だったと言われています。ただ長慶天皇の時代の南朝は、多くの有力家臣が世を去り、衰退の一途にありました。
それをさらに弱体化させたのが、長慶天皇と楠木正儀と対立です。楠木正儀は、楠木正成の三男として、南朝を軍事面で支えていました。しかし現実主義者だった楠木正儀は、南北朝の融和を主張。強硬派の長慶天皇と相いれなかった楠木正儀は、南朝内で孤立し、なんと北朝へ出奔する事件がおこります。
北朝側となった楠木正儀は、南朝の本拠地である天野行宮を攻撃。長慶天皇は、からくも吉野に落ち延びるも南朝の戦力は壊滅し、組織的な抵抗力を失いました。この出来事により、長慶天皇は融和派である後亀山天皇へ譲位。その後南北朝は統一されますが、長慶天皇がどこで崩御したかわかっていません。長慶天皇の陵墓と伝わる場所は27ヶ所も存在し、檜尾塚陵墓参考地もその一つにあげられています。
檜尾塚陵墓参考地へ行ってみました
今回は、観心寺に参拝したついでに寄らせていただきました。檜尾塚陵墓参考地は、観心寺の北側駐車場から徒歩2分ほどの場所に存在します。
一見ただの山にしか見えませんが、茂みに隠れて細く上へ続く階段が存在します。看板など一切存在しないので、知らなければ絶対誰も行くことはないでしょう。もちろん、当日も私以外誰もいませんでした。
かなり急な階段を上っていきますが、そんなに長くは歩かずに檜尾塚陵墓参考地が見えてきます。
宮内庁の立て札があるので、こちらが檜尾塚陵墓参考地はというのがかろうじてわかります。
周囲は柵がめぐらされていますが、針金なので陵墓の姿はよく見えます。墳頂には五輪塔が建てられているのが確認できますが、それ以外に人工物は存在しませんでした。
ぐるっと一周してみましたが、特にこれといったものはなく・・・
本当に山の中にある、こんもりとした土の塊です。古墳の場合は、周濠や円筒埴輪などから時代が判別できますが、この墳丘はどうやって南北朝時代のものと分かったのでしょうか?考えられるとしたらあの五輪塔ぐらいですが・・・
阿野廉子が、観心寺で亡くなっており、どちらか選べと言われれば長慶天皇の陵墓なのかもしれません。ただ、ここから車で15分ほど南にある川上神社にも長慶天皇の塚とされる陵が存在します。実際に誰のお墓であるかは、調査してみないことにはわかりません。観心寺周辺は南朝ゆかりの地であり、南朝ゆかりの人物が埋葬されている可能性は高いのではないでしょうか?
檜尾塚陵墓参考地データ
陵墓名 | 檜尾塚陵墓参考地(ひのおづか) |
住所 | 大阪府河内長野市寺本 |
形状 | 円丘 |
全長 | 不明 |
高さ | 不明 |
築造時期 | 南北朝時代? |
埋葬施設 | 不明 |
被葬者 | (推定)阿野廉子、長慶天皇 |
参考資料 | 河内長野市史 |
アクセスと駐車場
・公共交通機関
近鉄長野線もしくは南海高野線「河内長野駅」下車。南海バス小深線「金剛山ロープウェイ前行」「石見川行」もしくは、小吹台団地線「小吹台行」に乗車。「観心寺停留所」下車すぐ。
・自動車
檜尾塚陵墓参考地に駐車場はありません。観心寺の北側駐車場から徒歩1分ほどの場所にあるので、観心寺に参拝したついでに寄るのがいいかもしれません。
周辺スポット
・檜尾山 観心寺 ... 続きを見る
檜尾塚陵墓参考地から徒歩で5分ほどの場所にあるお寺。役行者が開基したとされるお寺で、楠木正成など南朝にゆかりがあります。
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・後村上天皇陵
観心寺の境内にある陵墓。阿野廉子の息子であり、長慶天皇の父である後村上天皇を祭っています。
・コウボ坂陵墓参考地
観心寺の境内にある陵墓。阿野廉子の陵墓参考地とされています。
・川上神社
檜尾塚陵墓参考地から車で15分ほどの場所にある神社。かつては鳩原神社とよばれていました。本堂の裏側にある塚は観心寺の三世住職「眞紹律師」の墓といわれていますが、長慶天皇の陵墓という説もあります。
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