南河内の神社を紹介する「となりの鎮守様」シリーズ。今回は、南河内郡太子町山田にある「科長神社(しながじんじゃ)」です。科長神社には、神功皇后誕生の地という伝説が残されています。神功皇后は、三韓征伐を行った女傑として知られていますが、なぜ科長神社が、神功皇后の誕生地とされているのか?今回は、南河内郡太子町山田にある「科長神社」を紹介します。
科長神社とは
科長神社は、927年に記された延喜式神名帳に記載された由緒ある式内社。もともとは二上山にあり「二上権現」と呼ばれていました。のちの1238年(歴仁元年)に、現在地へ移ったといわれています。一説には、現在地より北東にそびえる「神山」にあり、1648年(慶安元年)に移ったとの説もあります。もともとこの場所には「土祖神社」「一名恵比須神社」がありましたが、科長神社が移った際に末社となっています。
一説には、現在地より北東にそびえる「神山」にあり、1648年(慶安元年)に移ったとの説もあります。もともとこの場所には「土祖神社」「一名恵比須神社」がありましたが、科長神社が移った際に末社となっています。主祭神は、級長津彦命(しなつひこのみこと)・級長津姫命(しなつひめのみこと)の2柱。両神は、イザナミ、イザナギの子で「風の神」とされています。
いつの頃かは不明ですが、素盞嗚命・品陀別命・建御名方命・武甕槌命・経津主命・天児屋根命・天照大神を祭祀。江戸時代までは「八社大明神」と称していました。1872年(明治5年)に郷社に列し、1907年(明治40年)に春日の素盞鳴神社、太子字上城の科長岡神社を合祀。現在に至ります。
科長神社は神功皇后誕生の地
科長神社は、神功皇后の誕生の地という伝説が残されています。その前に、神功皇后とはどのような人物なのでしょうか?神功皇后は、死後に送られた名前で、古事記では「息長帯姫大神(おきながたらしひめのみこと)」と記されています。
父は息長宿禰王、母は葛城高顙媛。息長氏は、第9代開化天皇の三男「彦坐王」を祖に持つ古代の名族として知られています。神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇妃となり、天皇の熊襲討伐に同行しました。討伐の際に仲哀天皇は、神より朝鮮半島への侵攻の啓示を受けますが、これを無視。激怒した神は、仲哀天皇を呪い殺してしまいます。
突然、夫を失った神功皇后は、神の意志を引き継ぎ、朝鮮半島へ侵攻。新羅を降伏させると、百済、高句麗も軍門に下りました。いわゆる「三韓征伐」です。
神功皇后は、三韓征伐中に誉田別尊(後の応神天皇)を懐妊していましたが、日本で産むために腰に石を縛り付けて出産を遅らせます。神功皇后が日本に帰国すると、仲哀天皇の長男、次男(二人は神功皇后の子供ではない)が謀反を起こしますが、すぐさま鎮圧。その後、産まれた息子を皇位に就かせ、第15代応神天皇となります。
三韓征伐、腰に石を巻き出産を遅らせる、謀反を鎮圧と、神功皇后のイメージは、剛毅な女傑といえます。
科目神社一帯は息長氏の本拠地?
科長神社一帯は、神功皇后の一族である息長氏の本拠地だったとする説が存在します。確固たる根拠はありませんが、いくつかの理由を挙げると
①科長(しなが)と息長(おきなが)が似ている。
科長神社の建つ場所は「磯長(しなが)」ともいわれるエリアに存在します。
科長→磯長→息長
となり、息長氏の本拠地と考えられたとの説。
また、息長は「しなが」とも読めることから、息長氏の本拠地とする説もあります。(なぜ「息」を「し」と読めるのかは分かりませんが…)
②科長神社の末社に「息長宿禰王」「葛城高顙媛」が祭られている。
息長宿禰王と葛城高顙媛は、神功皇后の両親。科長神社の末社「土祖神社」「一名恵比須神社」にこの2人が祭られています。こちらも息長氏が本拠地とした理由の一つ。
③社宝として「神功皇后雛形兜」がある。
神功皇后が三韓征伐の時、御所用兜の雛形として作らせた「神功皇后雛形兜」が、社宝として残されています。本物を見ることはできませんが、太子町立竹内街道歴史資料館にレプリカが展示されています。
謎が多い息長氏
いくつか息長氏の河内国本拠地説を挙げましたが、一般的には近江国坂田郡(滋賀県彦根市一帯)が有力候補とされています。ただ、息長氏については、不明な点も多く確証はありません。
息長氏は、神功皇后以外にも皇室に娘を嫁がせている名族です。しかし、政治の表舞台にあらわれることは少なく、末裔も不明というミステリアスな一族。実際に息長氏の本拠地がどこなのかは不明ですが、枝分かれした息長氏の一族が科長神社周辺にいたのかもしれません。
科長神社へ行ってみました
今回は、車で科長神社へ向かいました。南河内グリーンロードを南に下りますが、曲がる道が1本早かったため、とんでもなく狭い道に突入。対向車がこないかドキドキです。科長神社の駐車場はなさそうですが、神社の手前に数台停められそうなスペースがあるので、そちらに駐車。
科長神社は、山の麓にあり緑に囲まれた神秘的な雰囲気。入口には「科長社」と彫られた灯篭が置かれています。科長の読み方は「しなが」ですが、地味に難読です。「磯長」を「しなが」と読むのも分かりませんが…
坂を上ると、正面にとても長い階段があります。この先に存在するのが「小野妹子の墓」。太子町は、聖徳太子ゆかりの土地として知られており、飛鳥時代の史跡が数多く残されています。
神功皇后は、飛鳥時代から数百年昔の人物なので、科長神社だけすこし浮いた感じも…。ちなみに小野妹子の墓は、科長神社の隣にありますが、小野妹子と科長神社に接点は無いようです。階段の横にある手水舎。科長神社の裏には「八精水」と呼ばれる湧き水があり、刀鍛冶がこの水で刀を鍛えたといわれています。この手水舎の水が八精水なのかは、不明ですが…
鳥居には「八社大明神」と書かれた扁額が掛けられています。こちらは、江戸時代の公家「藤原頼孝」により書かれたもの。一説によれば、藤原頼孝が祖神である春日神を勧請し「八社大明神」と称させたといわれています。
しかし、科長神社に祀られている神様の数を数えると「九柱」なんです・・・まあ「八」という数字は「たくさん」という意味もあるみたいなんでツッコんではいけないのかも・・・
藤原頼孝について調べてみましたが、情報が少なく科長神社とのつながりは分かりませんでした。藤原頼孝は藤原北家の流れを汲む公家ですが、この頃は「葉室」と称していたようです。太子町には「葉室」と呼ばれる地区があることから、何かつながりがあったのかもしれません。
鳥居をくぐり、すぐ左側にある金平大明神。社名の通り金比羅様を祭っているようです。大量の旗指物がハデハデです。
境内右端並べられている、巨大な灯篭。
拝殿の左側に社務所がありますが、宮司さんは常駐していないようです。
境内奥にある狛犬と灯篭。こちらの灯篭には「八社宮」と彫られています。なぜか周囲を竹の柵で囲んでいます。
正面からは見られませんが、拝殿の裏側に本殿が存在。本殿は、三間流造・千鳥破風を持つとのこと。本殿の脇に「息長宿禰王」「葛城高顙媛」を祭る社があるそうですが、確認するのを忘れていました。
帰ろうかと思い、戻る途中に奥に続く道があったので、行ってみることに。道の先には、かなりしっかりした鳥居と、社が置かれていたと思われる土台がありました。昔は、神社があったと思われますが、詳細は不明です。
まとめ
神功皇后にゆかりのある科長神社を紹介しました。神社の情報は色々出てくるのですが、フワッとした内容が多く謎が多い神社でした。現在地に遷座してから明治時代までの記録もほとんどありません。それなりに敷地も広く由緒ある神社ですが、案内板なども一切ありません。なにかこだわりがあるのでしょうか…
御朱印
御朱印 | 書置き |
初穂料 | 300円 |
宮司さんは常駐していないため、祭事などの時期にいただけるのではないでしょうか?
科長神社データ
神社名 | 科長神社 |
住所 | 大阪府南河内郡太子町山田3751 |
祭神 | 級長津彦命・級長津姫命 |
配神 | 素盞嗚命・品陀別命・建御名方命・武甕槌命・経津主命・天児屋根命・天照大神 |
摂社 | 金平大明神・二上神社、恵比須神社、琴平神社 |
旧社格 | 郷社 |
式内社 | 式内小社 |
祭礼 | 7月第4回日曜日:夏祭り・だんじり |
参考資料 | 大阪府神社名鑑 |
アクセスと駐車場
・公共交通機関
近鉄南大阪線「上ノ太子駅」下車。金剛バス「畑・平石線」に乗り「科長神社前・ふくの音前」下車、徒歩5分。(バスの本数はかなり少ないです。)
・自動車
国道170号外環状線「栗ヶ池大橋西交錯」を東に曲がります。栗ヶ池バイパスを渡り、そのまま府道32号美原太子線を直進。道なりに進み、「太子交番前交差点」を左折して国道166号線に入ります。道なりに進み「南河内グリーンロード」の案内板がある信号を右折。南河内グリーンロードをすすみ、3つめの交差点を左折して住宅地に入ります。道なりに進むと、川があり、川沿いに進むと2~3台停められそうな駐車スペースがあります。
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