千早赤阪村 千早赤阪村の古墳

大森塚古墳|大森彦七のお墓?それとも古墳?~千早赤阪村~

大森塚古墳

南河内の古墳を紹介する「ぶら古墳シリーズ」。今回は、千早赤阪村森屋にある「大森塚(おおもりつか)」です。大森塚は、南北朝時代に活躍した「大森盛長」の墓と伝わる場所として知られています。一方で大森塚は大森遺跡内に存在することから、古墳との説も。ただ、本格的な調査が行われておらず、大森塚が墓なのか古墳なのかはわかっていません。

そんな謎に包まれた大森塚とはどのような場所なのか?今回は、千早赤阪村森屋にある「大森塚」を紹介します。

大森盛長(伝七)とはどのような人物なのか

大森盛長は、南北朝時代に活躍した武将で、通称「大森伝七」とも呼ばれています。大森盛長は、伊予国(現:愛媛県)を本拠地とした武将で、後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵した際は、朝廷側に味方しています。

その後、後醍醐天皇を中心とした南朝と、足利尊氏が支持する北朝が対立すると、大森盛長は北朝側へ。太平記によると、足利軍と楠木正成・新田義貞連合軍が激突した「湊川の戦い」で、大森盛長が楠木正成を撃破して敗死させたともいわれています。

楠木正成像
観心寺にある楠木正成像

この後の大森盛長と楠木正成について、太平記にはある因縁が記されています。大森盛長は、猿樂の演者としても知られており、ある日、猿楽を舞うために舞台へ向かっていると、道端に女性がたたずんでいました。

尋ねてみると、道に迷ったとのことで案内することに。女性は足元がおぼつかないようだったので、大森盛長は女性を背負って歩いていると、突然女性は2m以上の鬼女に変身し、大森盛長に襲いかかりました。

「大森彦七道に怪異に逢ふ図」
「大森彦七道に怪異に逢ふ図」ウィキペディアより

武勇で知られた大森盛長は、なんとか鬼女を引き剥がし、もみ合いながら田んぼに転がり落ちます。騒ぎに気がついた家来が駆けつけると、鬼女は宙を舞いながら消えていきました。鬼女の出現で延期となっていた猿楽が後日開催された夜、海の方から多数のあやかしが出現。

あやかしの中から楠木正成の怨霊が現れ、大森盛長の持つ「七宝の剣」を要求しました。楠木正成の怨霊は、その宝剣を手に入れて足利尊氏を討ち滅ぼすと言い放ちます。それを聞いた大森盛長は、これを拒否。楠木正成の怨霊はこの場から消えますが、その後も度々楠木正成の怨霊は大森盛長の前に現れて、苦しめます。

困った大森盛長は大般若経を読むといいことを知り、日夜6度読み続けます。すると、楠木正成の怨霊が現れることがなくなったということです。ちなみに大森盛長の一族はその後も伊予国を拠点とし、戦国時代が終わると伊予国風早郡小川村の庄屋として明治時代まで続いています。

そんな大森盛長がなぜ千早赤阪村に墓が残ると伝わったのかはよく分かりません。千早赤阪村といえばもちろん楠木正成の本拠地であり、正成を死に追いやった大森盛長がここに埋葬されるのは少し無理がありそうです。

大森塚古墳とは

仮に大森塚が大森盛長の墓でないとすれば、この塚は一体なんなのでしょうか?一説によると、この塚は古墳ではないかともいわれています。大森塚の一帯は「大森遺跡」といわれており、縄文時代から鎌倉時代にかけての遺跡が見つかっています。

2007年、大森塚の東に村道建設が行われる際の発掘調査により、縄文時代と古墳時代〜鎌倉時代にかけての土器などがいくつか見つかっています。

また大森塚の北西にある「神山丑神遺跡(こうやまうしがみいせき)」には、古墳群も存在しています。さらに大森塚の東側には石塚古墳群や金山古墳、南側には御旅所古墳・御旅所北古墳など古墳時代後期の古墳がいくつも存在しています。

御旅所北古墳の石棺
御旅所北古墳

大森塚に詳しい発掘調査が行われていないため、大森塚が古墳であるかは不明です。ただ周辺には多くの終末古墳があることから、大森塚が古墳の可能性もあるのではないでしょうか?

大森塚古墳に行ってきました

大森塚古墳の近くには駐車スペースがありません。今回は、徒歩10分ほどの場所にあるスーパーオークワで買い物をし、そのついでに寄らせていただきました。

石塚古墳群のあるスパーオークワ

千早赤阪村に現存する古墳は、御旅所古墳、御旅所北古墳のみと思っていましたが、根気よく探してみると意外に残っているものです。といっても古墳かどうかは分かりませんが・・・

スーパーオークワ周辺は、近年開発が進み近隣の道路も新しくなっています。その為、発掘調査なども行われて遺跡や古墳も見つかっています。オークワの建設時にも、石塚古墳群が見つかり、駐車場内に保存されています。

石塚古墳群の2号墳
スーパーオークワの駐車場にある「石塚古墳群」

さて、大森塚古墳に向かってみます。309号線を西に進み森屋大森交差点を左折。工場と畑が入り混じる景色を横目に、更に西に歩きます。

大森塚古墳

しばらくすると広い道に出てきますが、この辺りが2007年に発掘調査を行われた場所。ここは大森遺跡の範囲外ですが、大森塚に近いという事で発掘調査が行われたようです。

大森塚古墳

大森塚へは、この細い農道の先にあります。

大森塚古墳

農道を少し歩くと小屋があり、この隣にある土の盛り上がり部分が「大森塚」です。

大森塚古墳

古墳だとすれば、かなり小さく封土が大きく失われている状態です。大森盛長墓というならば、これぐらいのサイズが妥当な規模かもしれません。

大森塚古墳

2018年11月に撮影されたグーグルマップのストリートビューを見ると、かなり生い茂った木でしたが、現在は枝葉が殆ほとんど切り落とされてサッパリしています。ただ、枝葉が無くなり日が差すようになったのか、塚の上はかなり草が生い茂っています。

大森塚古墳

どの角度からみても土の塊にしか見えませんが、塚なのでしかたありません。

大森塚古墳
大森塚古墳

塚の外縁に沿って一部丸い石が置かれていますが、塚が築かれたときからあったものではなさそうです。

大森塚古墳

はてさて、この塚は大森盛長のお墓なのか?古墳なのか?ただの土の塊なのか?今後の調査で全貌が解明されることを期待したいところです。

まとめ

大森塚古墳

今回は、千早赤阪村森屋にある「大森塚」を紹介しました。大森盛長は、天皇に忠義を示した楠木正成を敗死させた武将ということで、明治時代以降は少し肩身の狭い扱いをされたようです。そんな大森盛長の墓とされる塚が、楠木正成誕生の地近くにひっそりと存在して語り継がれているというのが興味深いですね。

大森塚古墳データ

古墳名大森塚古墳
住所大阪府南河内郡千早赤阪村森屋291-2
墳形不明
直径不明
高さ不明
築造時期不明
被葬者大森盛長(伝)
埋葬施設不明
出土物不明
参考資料・大森遺1跡発掘調査概要I2007.3
・郷土史の研究

アクセスと駐車場

・公共交通機関
近鉄長野線「富田林駅」下車。駅前から出ている金剛バスの白木線に乗り「中村南口」下車。少し北に歩き、最初の交差点を左折します。道なりに5分ほど歩き、森屋大森交差点を左折。左折ご最初の交差点を右折して少し歩くと広い道があり、道を渡ったところに細い農道があります。農道を道なりに歩くと右側に小屋があり、その隣の土が盛り上がったところが大森塚古墳になります。

・自動車
大森塚古墳に駐車場はありません。また、地区にコインパーキングや駐車スペースもありません。ただ、徒歩15分ほどの場所に「道の駅かなん」があるので、そこからなら徒歩でも可能です。

周辺スポット

・石塚古墳群
大森塚古墳から徒歩で10分ほどの場所にある古墳。スーパーの駐車場内に保存されている珍しい古墳群で、3基の古墳が残されています。

・金山古墳
大森塚古墳から徒歩で20分ほどの場所にある古墳。大小二つの円墳が合わさった日本でも珍しい双円墳という墳形を有しています。

・御旅所古墳・御旅所北古墳
大森塚古墳から車で5分ほどの古墳。千早赤坂村に現存する唯一の古墳として知られています。御旅所北古墳と御旅所古墳の2基が保存されており、北側には石棺を見ることができます。

・寛弘寺古墳群/寛弘寺公園
大森塚古墳から車で5分ほどの場所にある古墳群。古代の豪族「紺口県主」にゆかりがある古墳と考えられています。現在は、古墳公園として整備され、市民の憩いの場となっています。

・出合戎藤野森神社
大森塚古墳から車で5分ほどの場所にある神社。楠木正成秘蔵の御神体を祭る神社として知られています。

・鴨習太神社
大森塚古墳から徒歩で5分ほどの場所にある神社。物部氏、もしくは賀茂氏が創建したと伝わります。延喜式神名帳にも記載された、由緒ある式内社。

・中村神社跡
大森塚古墳から徒歩15分ほどの場所にある神社跡。現在は千早赤阪村にある建水分神社に合祀されていますが、旧社地には鳥居や狛犬などの遺物がいくつか残されています。

・道の駅かなん
中村神社跡から車で5分ほどの場所にある道の駅。地元河南町でとれた新鮮な野菜や特産品を販売しています。

・道の駅ちはやあかさか
中村神社跡から車で5分ほどの場所にある道の駅。大阪府唯一の村にある小規模な道の駅ですが、オシャレにリニューアルされ、人気を呼んでいます。

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