以前から松原市にある「阿保(あお)」という変わった地名が気になっていました。少し調べてみるとこの地名は平安時代初期に活躍した阿保(あぼ)親王と言う皇族に由来があるとの事。
この阿保親王、実は戦国時代に中国地方で広大な領土を築き上げた毛利元就でおなじみ毛利家と深いつながりがありました。毛利家、阿保親王、松原市にどのようなつながりがあるのか・・・今回は阿保親王と毛利家について紹介します。
阿保親王と松原市
阿保親王の父は第51代天皇である平城天皇、母は葛井藤子。息子には伊勢物語で有名な在原業平がいます。「続日本書紀」によれば阿保親王は謙虚な人柄で、なおかつ文武両道で歌も上手だったとか。
ただ父親の平城天皇がややクセある人物でした。平城天皇は異母弟の嵯峨天皇に天皇の座を譲り上皇となりますが、810年に反乱を企んで失敗します。平城上皇お気に入りの女性と共に企んだ事から「薬子の変」と呼ばれています。
阿保親王が薬子の変にどう関与したかはわかりませんが、この政変に巻き込まれた阿保親王は九州へ左遷される事に。九州で不遇の時を過ごしますが薬子の変から14年後の824年に許されて京都に戻ります。
復帰後、834年に阿保親王は現在の松原に邸宅を移します。これが現在の松原市阿保とされています。邸宅があったとされる場所に遺構は残っていませんが、その場所には阿保神社が建てられています。
阿保神社の祭神は菅原道真ですが、摂社において阿保親王を祭る祠があります。阿保神社の社伝によると菅原道真の死後に天満宮が多く建てられた頃の創建ということなので、西暦900年前半と思われます。
なぜ松原に邸宅を築いたのか?それは阿保親王の母親である葛井藤子に関係があると言われています。葛井藤子はその名の通り葛井氏の出身で、葛井氏は葛井寺に先祖を祭っていました。
阿保の地は葛井寺にほど近い場所にあることから、阿保の地を邸宅に選んだと考えられています。この頃の葛井寺は寂れていたようで、阿保親王により葛井寺は再建されています。
阿保親王が移ってきたころの松原は土地が枯れて作物の収穫があまり多くありませんでした。これを見た阿保親王は邸宅内にあった池を民衆に開放し灌漑用の池を造り変えました。現在その池は埋め立てられてしまいましたが、親王の功績にちなんで「親王池」と呼ばれていました。
それ以外にも貧困者や孤児、病人達を救済する施設を建てるなど、阿保親王は慈悲深い領主で民衆からも慕われていました。民衆が困ったときのため阿保親王が財宝を隠したという伝説が、ゆかりのある松原や芦屋に残っています。
松原の阿保で平和に暮らしていた阿保親王ですが842年に「承和の変」と呼ばれる天皇の皇位継承を巡る政変が起こります。しかも反乱勢力から協力を求められるなど再び政変に巻き込まれますが、今回は上手に立ち回り事なきを得ます。しかしその年に51歳で亡くなられます。死後、天皇、皇太子を除く皇族の中では最高位の「一品」の位を授かったことから一品親王とも呼ばれます。
阿保親王と毛利氏
この家紋は毛利家の家紋「一文字に三つ星」です。
「一文字に三つ星」は阿保親王に関わりのある形をしています…その関わりとは阿保親王の別名の「一品親王」にあります。実は毛利家の家紋はこの「一品」をベースに家紋の形がつくられているのです。
阿保親王と毛利家の関係ですが、毛利家は鎌倉時代に政治面で活躍した大江広元の四男大江季光を始祖としています。
その大江家を遡ると先祖に大枝本主という貴族がいます。大枝本主は阿保親王が九州に左遷される時に阿保親王の息子を養子にしたという説と、阿保親王の侍女を大枝本主が妻にしたとき、既に阿保親王の子を身ごもっていたという2つの説があります。
つまり大枝本主の息子は阿保親王の血を引いた子供なのです。大枝本主の息子となった阿保親王の子供は後に姓を大枝から大江に改め、大江音人と名乗りました。この阿保親王の血を引く大江音人の子孫が毛利家に繋がるということです。
「一文字に三つ星」ですが「一品」以外にも意味があり一文字は「敵に勝つ」の意味を持ち、三つ星は軍神として信仰のあった将軍星を表しています。この二文字の家紋の中に「家柄の高さ」「武門の家系であること」そして、この形にこれだけの意味付けができる「教養の高さ」が表されています。
そんな訳で毛利家は先祖である阿保親王を大変敬いました。江戸時代の参勤交代で歴代の藩主は芦屋にある阿保親王陵と菩提寺に参ったそうです。
芦屋と阿保親王の関係は、阿保親王が芦屋に別荘を持っていたという説があるからです。そのため芦屋にも阿保親王に関する場所がいくつかあります。
阿保天神社、阿保親王陵、阿保親王別荘跡地に建てられたという親王寺などが阿保親王にゆかりがあります。しかし阿保親王が芦屋にいたという記録はなく、阿保親王陵の出土品の年代が阿保親王の時代より500年ほど古いという事から別の人物の墓との指摘もあります。
松原の民話の中には、松原市にある「大塚山古墳」が阿保親王の墓ではないかとの言い伝えもあり、実際に毛利家の家老を務めた村田清風が大塚山古墳の実地調査に訪れています。
ただ阿保親王の時代には、古墳を築造する風習はなく阿保親王の墓ではないと思われます。
まとめ
今回は松原市、芦屋市と阿保親王の足跡をたどってみました。ここに書ききれなかったのですが、松原でも芦屋でも阿保親王を慕う民衆のエピソードがいくつか存在しました。
民衆から大きな支持を受けていた阿保親王を先祖に持つ事を、毛利家にとっては大いにアピールしたいところだと思います。徳川家の格に対抗するために利用された部分もあり、阿保親王もあの世で複雑な思いだったかもしれません。しかし今はゆかりの地を訪れる人も少なく、寂しい思いをしているかもしれませんね。
御朱印
御朱印 | 手書き |
初穂料 | 300円 |
阿保神社データ
神社名 | 阿保神社 |
住所 | 大阪府松原市阿保5丁目4-19 |
祭神 | 菅原道真 |
摂社 | 阿保親王社・厳島姫命社 |
旧社格 | 不明 |
式内社 | なし |
祭礼 | 7月夏祭・10月秋祭 |
参考資料 | 案内板、大阪府神社名鑑 |
阿保天神社データ
神社名 | 阿保天神社 |
住所 | 兵庫県芦屋市上宮川町7-11 |
祭神 | 阿保親王・在原業平・菅原道真 |
阿保山 親王寺データ
神社名 | 阿保山 親王寺 |
住所 | 兵庫県芦屋市打出町3番21号 |
宗派 | 浄土宗 |