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允恭天皇陵(市野山古墳)|氏性の混乱を盟神探湯で解決!〜藤井寺市・世界文化遺産〜

允恭天皇陵

南河内の古墳を紹介する「ぶら古墳シリーズ」。今回は、藤井寺市国府にある「允恭天皇陵(市ノ山古墳)」です。百舌鳥古市古墳群の一つで、世界文化遺産リスト「25」に登録されています。仁徳天皇の息子であり、古墳時代最盛期に天皇の座にあった允恭天皇。その治世や陵はどんなものなのか?今回は藤井寺市にある「允恭天皇陵(市ノ山古墳)」を紹介します。

允恭天皇とは

父は仁徳天皇、母は葛城襲津彦の娘である磐之媛命。同母兄弟に履中天皇、反正天皇を持ちます。皇后である忍坂大中姫の父は、仁徳天皇の弟で、允恭天皇と忍坂大中姫は従兄弟同士。允恭天皇と忍坂大中姫の間には、後の安康天皇、雄略天皇をもうけます。

允恭天皇陵

この時期、倭国の歴代天皇は、中国に使者を派遣しています。いわゆる「倭の五王」である讃・珍・済・興・武です。ただ、允恭天皇がこの5人のどれかに含まれるかは諸説があり定まっていません。反正天皇の崩御後に天皇に推されますが、病弱のため初めは即位を断ります。しかし、皇后の強い要請でやむなく天皇に即位。いつの時代も奥さんは強いですね・・・

即位すると、朝鮮半島の新羅から貢ぎ物を積んだ81艘もの船がやってきます。偶然に新羅の使者が、医学の知識を持っており、允恭天皇の病を治療。健康となった允恭天皇は、指導力を発揮して国を治めます。

允恭天皇は「遠つ飛鳥」、現在の明日香村に都を移し政治を行いました。「遠つ飛鳥」という呼び名は、難波宮からの地理的な遠さを表しています。難波野宮から近いほうの飛鳥は、羽曳野市飛鳥一帯を指し、「近つ飛鳥」と呼ばれています。

乱れた氏姓を盟神探湯で正す

允恭天皇は、乱れていた氏姓を正したことで知られています。当時の有力者たちは、世襲を重ねる間に氏姓を間違えたり、有利になるよう偽る者がおり、混乱していました。いや、偽る人がいても自分の氏姓を間違える事があるのだろうかとは思うのですが、古事記にはそう記載されています。

混乱を危惧した允恭天皇は、明日香の甘樫丘(あまかし)に臣下を集めます。そこに、偽りを述べた者に禍いを与えると言われる「言八十禍津日神」を祭り盟神探湯を開催。盟神探湯とは熱湯の入った釜に手を入れ、火傷の具合からその者が嘘をついているか占う儀式です。

甘樫丘
甘樫丘

実際に火傷の具合で嘘が見破れる訳ではありませんが、祟りが信じられている時代でしたので、嘘をついている人物を脅して白状させる仕組みと思われます。この盟神探湯により氏姓の乱れは収まったと記されています。

允恭天皇と葛城氏

允恭天皇の母である磐之媛命は、武内宿禰を祖とする葛城氏の出身。大和葛城地方の有力豪族である葛城氏は、仁徳、履中、反正天皇に子女を嫁がせ、天皇の外戚として大きな権力を有していました。

しかし葛城氏は、大きな権力を誇っていただけに、天皇との関係も微妙になっていたようです。葛城一族の玉田宿禰は允恭天皇より、ある任務を受けていましたが、酒盛りをしてサボっていました。允恭天皇からの使者に酒盛りを見られた玉田宿禰は、使者を殺害すると武内宿禰の墓に逃げ隠れます。

室宮山古墳
武内宿禰の墓と伝わる「室宮山古墳」

その後、允恭天皇は玉田宿禰を呼び出しますが、誅殺を恐れたのか玉田宿禰は服の下に鎧を着て参上。それを知った允恭天皇は激怒し、兵を集めて玉田宿禰を殺害。

のちに允恭天皇の息子、雄略天皇は、玉田宿禰の子供である葛城円も殺害します。こうして葛城氏の主流は滅ぼされ、葛城氏は大きく衰退していきました。その後、天皇家の外戚は和邇氏、蘇我氏と変わってゆきます。

允恭天皇は、80歳前後で崩御。残された9人の子供達の中から穴穂皇子が安康天皇として跡を継ぎます。

允恭天皇陵とは

古墳名は「市野山古墳」。全長227m、高さ23.3mの前方後円墳。

允恭天皇陵

藤井寺市で3番目、全国で19番目の規模で、古市古墳群が密集する国府台地の北端に存在。墳丘は三段築成で、くびれ部分の両側に「造出」とよばれる突起部が確認されています。周辺から見つかった埴輪の形状から5世紀中頃に築造されたと考えられています。

允恭天皇陵

現在は内濠しかありませんが、築造時は外濠を持ち二重の周濠を有していました。内濠は、北東部に少し水が溜まっていますが、ほぼ空堀になっています。ただ、地形的に築造時からあまり水が無かったのではないかと言われています。

江戸時代には河内木綿の材料となる綿が植えられており、「綿山」とも呼ばれていました。允恭天皇陵は空堀のため、当時は自由に出入りできたようです。市ノ山古墳は宮内庁から允恭天皇陵と比定されています。しかし同じ藤井寺市にある「津堂城山古墳」も允恭天皇の陵墓である可能性があり「藤井寺陵墓参考地」として管理されています。

津堂城山古墳
津堂城山古墳

ただ、津堂城山古墳の築造時期と允恭天皇が活躍した時期は異なるため、その可能性は低いと思われます。

允恭天皇陵周辺の古墳

允恭天皇陵の周辺には10数基の古墳が存在していましたが、開発などにより多くが消滅。現在3基の古墳が残されています。允恭天皇陵の東側に「衣縫塚古墳(いぬいづかこふん)「宮の南塚古墳」。南側に「唐櫃山古墳(からとやまこふん)が存在します。

宮の南塚古墳
宮の南塚古墳

「衣縫塚古墳」と「南の南塚古墳」は宮内庁により、允恭天皇陵の陪塚に指定されており、中には入れません。唐櫃山古墳は周囲に柵があり中に入れません。

現在の允恭天皇陵

駅を出て信号を渡ると唐櫃山古墳があり、そのすぐ横が允恭天皇陵の後円部。後円部には案内板が設置されています。

允恭天皇陵古墳

ここは柵があり、見えにくいですが、墳丘よりも高い位置にあり、古墳の巨大さがよくわかります。

允恭天皇陵古墳

遥拝所の入口は前方部の北西にあるので、古墳沿いに西側からわまわります。遙拝所へ通じる道は古墳北東側の駐車場にありますが、道の入口が狭く、うっかりしていると見落としてしまいます。

允恭天皇陵

参道には柵がなく、允恭天皇陵を一望することができます。これほど巨大な古墳ですが、見学できる場所が南北しかないのは、少し残念。

允恭天皇陵
允恭天皇陵

明治時代に宮内庁が管理するまでは、誰でも古墳内に入ることができ、畑にもなっていたようです。藤井寺市には允恭天皇陵にまつわる民話があり、昔の人々が古墳とどう関わったのかを垣間見る事ができます。

允恭天皇陵データ

古墳名市野山古墳
宮内庁惠我長野北陵
住所大阪府藤井寺市国府1丁目
墳形前方後円墳
直径227m
高さ23.3m
築造時期5世紀中頃
被葬者允恭天皇
埋葬施設不明
出土物不明
参考資料古市古墳群をあるく

アクセスと駐車場

◆公共交通機関
近鉄南大阪線「土師ノ里駅」下車。駅を出て信号を渡るとすぐに、允恭天皇陵の後円部につきます。古墳自体は駅の北側に見えていますが、遥拝所へ行くには古墳の北東側へ10分ほど歩く必要があります。

◆自動車
大和高田線「土師ノ里」交差点付近。允恭天皇陵の前方部側に2ヶ所、土師ノ里駅東側に1ヶ所コインパーキングが存在します。

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