昔から地域を守り続ける神社を紹介する「となりの鎮守様」シリーズ。今回は、河内長野市にある「住吉神社」です。
住吉神社とは
明治以前の歴史について詳しい事は分かっていませんが、仲哀天皇の皇后である神功皇后と深い繋がりがある神社として知られています。明治時代までは「豊浦神社」と称していましたが、明治に入り「住吉神社」と称するようになったと言われています。
神功皇后と三韓征伐
神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母。かつて「卑弥呼=神功皇后」と言う説もありましたが、現在その説はほとんど支持されていません。神功皇后の息子「応神天皇」の陵が5世紀初めに築造されたとすると、4世紀あたりに住吉神社は創建されたことになります。
住吉神社では「住吉三神」と呼ばれる「表筒男命・中筒男命・底筒男命」の三神と「神功皇后」「武内宿禰」を祭っています。仲哀天皇が九州の熊襲征伐を行っている時、住吉三神は朝鮮半島を攻めるよう仲哀天皇に神託します。しかし仲哀天皇はそれを信じなかった為、住吉三神の祟りにより急死。
神功皇后は住吉三神を祭ると、朝鮮半島に攻め込み新羅、高句麗、百済を下したと記紀には記されています。これがいわゆる「三韓征伐」です。実際に神功皇后が存在して三韓征伐を行ったかについては諸説がありますが、広開土王碑の記録からも倭国は朝鮮半島へ頻繁に出兵していたのは事実のようです。
神功皇后と住吉神社
住吉神社と神功皇后の関わりは三韓征伐凱旋後の話になります。神功皇后は全国を巡行の際、堺から川を遡り河内方面へ向かっていました。そこで神功皇后は弓を放ち、矢が落ちた場所を目的地に定めます。
河内国の国境へ着くと、名主の與三五郎と言う者が出迎え、矢の落下したと言う住吉神社の南にある「高天原」へ案内。それから50年後、神功皇后は現存住吉神社の建つ場所に本殿を建立。自らが神主となって住吉三神を祭ったとされています。
現在の住吉神社
住吉神社に着くとまず目にはいるのが、ドーンと広がるとても長い道。これは毎年10月に行われる「馬駆神事」で馬が走る馬場です。
「馬駆神事」は神功皇后の征韓祝賀のために裸馬の競走を催したことが由来とされています。氏子が奉納した馬の手綱を取って約300mの馬場を駆け抜けると言う迫力のある神事。この日は多くの人が訪れ、大変賑わうそうです。
長い馬場の途中にある「高天原神社」。住吉神社の御由緒にも「住吉神社の南にある高天原」と言う地名がでてきましたが、元々はそこあった神社だったのでしょうか?
長い馬場を抜けると、立派な拝殿が現れます。中にある本殿は江戸時代の1813年に建て替えられたもの。本殿には住吉三神他、神功皇后と武内宿禰が祭られています。
馬駆神事だからと言う訳ではないと思いますが、神の使いと言うことで立派な神馬も。
神社北側にはなぜか鐘楼が存在します。おそらくかつて存在した神宮寺の名残ではないかと思われます。明治時代に行われた廃仏毀釈により神宮寺の多くが失われました。
南河内にも神宮寺の名残を残している神社がいくつも存在しますが、こうした建物を残しているのは、地元の意向を無視したやり方に対するささやかな抵抗だったのかもしれません。
御朱印
御朱印 | 手書き |
初穂料 | 300円 |
住吉神社データ
神社名 | 住吉神社 |
住所 | 大阪府河内長野市小山田町尾上山453 |
祭神 | 表筒男命・中筒男命・底筒男命・神功皇后・武内宿禰 |
摂社 | 高天原神社・諏訪社 |
旧社格 | 神饌幣帛料供進指定社・郷社 |
式内社 | なし |
祭礼 | |
参考資料 | 案内板 |
アクセスと駐車場
南海「千代田駅」から南海バス、「福祉センターあかみね」下車徒歩1分。車の場合は駐車場あり。
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