百舌鳥古市古墳群を回っていると説明文に「陪塚(ばいちょう)」と言う単語が時々出てきます「陪冢」や「付属墳」とも呼ばれる事もありますが、基本的には同じ物です。
陪はあまり馴染みがない漢字で中々読めませんが、塚を「ちょう」と読むのは少し反則じゃないのか…。そんな事はどうでもいいのですが、陪塚を理解すると古墳の理解が少し進みますので、陪塚とはいったい何か?について紹介します。
陪塚とは
陪塚とは主墳の周囲に隣接する小さな古墳を指します。陪塚には、主墳に埋葬された人物の親族や、臣下が埋葬されていると考えられています。
ただ、墓山古墳の陪塚である西墓山古墳(消滅)では、副葬品だけが埋葬されており、人物だけが埋葬されるとはかぎりません。
陪塚には様々な墳形があり、主墳の埋葬者との関係により「前方後円墳」「円墳」「方墳」など、造り分けられていた可能性があります。
例えば応神天皇陵の場合
「二ツ塚古墳」 前方後円墳
「栗塚古墳」 方墳
「東馬塚古墳」 方墳
「誉田丸山古墳」 円墳
となっており、陪塚といっても様々なバージョンがあります。
百舌鳥古市古墳群において、陪塚が築かれるようになったのは5世紀前半頃と考えられています。百舌鳥古市古墳群で最も古く、築かれた津堂城山古墳には、陪塚は確認されていません。
誉田御廟山古墳(応神天皇陵)、大山古墳(仁徳天皇陵)等が築かれた5世紀中頃に、陪塚の築造はピークを迎えます。その後、徐々に陪塚は減少。百舌鳥古市古墳群末期に築造された「岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)」の陪塚は2~3基(推定)まで減少します。
陪塚数が減少していった理由についてはよくわかっていません。支配体制において大王と臣下の権力構造に変化が起こり、よほど近い人物以外は造らなくなったのかもしれません。
陪塚のややこしさ
陪塚には宮内庁により天皇陵の陪塚に指定されているものと、考古学的に陪塚と考えられているものがあります。
例えば応神天皇陵の場合
1「東馬塚古墳」
2「栗塚古墳」
3「誉田丸山古墳」
4「二ツ塚古墳」
5「墓山古墳」
6「向墓山古墳」
7「西馬塚古墳」
8「サンド山古墳」
9「東山古墳」
1~8が宮内庁より応神天皇陵の陪塚に指定されています。しかし、5~8は実際には応神天皇陵の陪塚ではないと考えられています。
5の墓山古墳は、墳長200mを超える巨大古墳で、大王クラスが埋葬されている独立した古墳考えられています。
6の向墓山古墳は、かつて墓山古墳と土の橋で繋がっており、墓山古墳の陪塚と考えられています。
7西馬塚古墳、8サンド山古墳は応神天皇陵から少し距離があり、独立した小古墳群に属していると考えられています。
9東山古墳は、応神天皇陵に隣接していますが、宮内庁からは陪塚の指定はされていません。しかし考古学的には応神天皇陵の陪塚と考えられています。
ちなみに、4二ツ塚古墳は応神天皇陵が築造される前から存在していたため、こちらも陪塚と言えるかと言えば判断が難しいところです。
応神天皇の濠は、元からあった二ツ塚古墳を避けるように築造。二ツ塚古墳には、応神天皇より先に亡くなった、天皇の近親者が埋葬されていると考えられます。
このように陪塚は宮内庁指定によるものと、考古学的に考えて陪塚と考えられているものが混在しています。陪塚と言っても一筋縄でいかない、ややこしいところでもあります。
まとめ
陪塚なのか独立した古墳なのか?今後調査が進めば、よりハッキリとしたことがわかってくるかもしれません。
墓山古墳の陪塚である野中古墳からは多くの甲冑が見つかっています。それにより、墓山古墳の埋葬者は軍事を司る大王の側近ではないかなどの説が出ています。
陪塚には誰が埋葬されているのか?どんな副葬品が眠っているのか?そんな想像を巡らすのも、古墳の楽しみ方の一つかもしれませんね。