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屯倉神社|梅林の美しい菅原道真ゆかりの神社【御朱印】~松原市三宅~

屯倉神社

南河内の神社を紹介する「となりの鎮守様」シリーズ。今回は松原市三宅にある「屯倉(みくら)神社」です。屯倉神社には、菅原道真が大宰府に左遷される前に立ち寄ったという伝説が残されており、道真ゆかりの遺構や作品が数多く残されています。

また屯倉神社は開運松原六社参りの1社としても知られており、毎年1月には多くの人が参拝に訪れます。今回は、美しい梅林を持つ菅原道真にゆかりの深い「屯倉神社」を紹介します。

屯倉神社とは

屯倉神社のある松原市三宅は、古墳時代に「屯倉(みくら)」が置かれていました。屯倉とは大和王権の直轄領的な場所で、各地に存在していました。この地の屯倉は松原市北部から大阪市住吉区南部あたりを範囲とする「依網(よさみ)屯倉」だったと考えられています。

屯倉神社

三宅の地名は「屯倉」が由来とされており、屯倉神社のある場所は「依網屯倉」の中心だった可能性があります。屯倉神社は、土師氏が祖神「天穂日命」を祭るために創建した「穂日の社」が由来とされています。土師氏の祖先である野見宿禰は、垂仁天皇の時代に、殉死にかわる方法として埴輪を考案。

土師社
道明寺天満宮の境内社で野見宿禰を祭る「土師社」

この功績により「土師臣」の氏を賜ったのが、土師氏の始まりとされています。こうした経緯から土師氏は、古墳の築造や埴輪の製造を職制としていました。

屯倉神社と菅原道真

後に土師氏はいくつかの一族に分かれますが、その一つが「菅原氏」です。菅原氏は聡明な人物を多く輩出し、朝廷の要職を得ていきます。その中で最も知られている人物が「菅原道真」です。

菅原道真は、宇多天皇の信任を得て順調に出世し、右大臣に昇進。しかし901年、ライバル藤原時平の讒言により太宰府に左遷されてしまいま。道明寺天満宮の記録によれば、菅原道真は大宰府に赴く途中で、道明寺の伯母に別れを告げたと伝わっています。

道明寺
道明寺

屯倉神社の記録によると菅原道真は、道明寺で伯母と別れた後に「穂日の社」にも立ち寄ったとも伝わっています。道真は石に座り、祖神の天穂日命に自らの無実を晴らすことを祈ったとのこと。

この道真が座った石は「神形石」として境内に残されています。神形石は、長さ180cm、幅110cm、高さ35cmの平たい石。羽曳野市にある鉢伏山でとれた石英安山岩と判明しています。

屯倉神社

鉢伏山の石英安山岩は、鉢伏山西峰古墳の横口式石槨にも利用されています。屯倉神社周辺には、かつて土師ケ塚古墳や権現山古墳が存在していました。神形石は、土師ケ塚古墳の一部との言い伝えもあり、古墳の石材の可能性もあります。

鉢伏山西峰古墳
鉢伏山西峰古墳

また屯倉神社には、高さ99.7cm、幅128.3cmの菅原道真像が存在します。菅原道真が太宰府で自らの姿を鏡に映して木像に刻み、三宅寺へ送ったと伝わっています。三宅寺は屯倉神社境内にあった寺院でした。梅松院として、屯倉神社の社務所にありましたが、明治初期に神仏分離令により廃寺。

屯倉神社
屯倉神社の社務所

本尊の十一面観世音は、同じ松原市三宅にある西方寺に移されています。

西方寺
西方寺

ただ菅原道真像は調査の結果、胴体部は近世、頭部は南北朝時代に作られたと考えられています。像の胎内には、1622年に書かれた丹生講式や柿経の法華経8巻、舎利2粒が納められていました。現在、菅原道真像は一般公開されていないため、見ることはできません。

その後の屯倉神社

朱雀天皇の時代(930~46年)、釈道賢という人物が参拝した際、十一面観世音のお告げが下ります。942年に釈道賢は、この地に住む人々と協力し、菅原道真像とともに、素戔鳴命(スサノオノミコ)と品陀別命(応神天皇)を祭神としたことが、屯倉神社の創建とされています。室町時代後半に入ると、畠山家の家督争いを発端に応仁の乱が勃発。10年近く続いた乱が終結した後も、河内国では畠山家の家督争いが続いていました。

応仁の乱勃発地
応仁の乱勃発地とされる京都の「上御霊神社の森の合戦地」

1493年の明応の政変において、畠山政長は、将軍足利義材を旗頭とし、羽曳野市古市にある高屋城を本拠地とする畠山基家討伐に向かいます。

安閑天皇陵
高屋城の本丸のあった安閑天皇陵

畠山政長は、平野区にある正覚寺に本陣を置き、三宅に1000と若林に500の兵を配置。三宅に配置された兵は、屯倉神社へ陣を置いたと考えられています。

正覚寺城跡
平野区旭神社内にある正覚寺城跡碑

その後も三宅の地は何度か戦場になっていることから、南河内の玄関口として軍事上の要衝であったようです。屯倉神社の南側にある溝は、陣を置いた際の濠跡といわれています。

江戸時代までは「依網三宅天満宮」と称していましたが、明治時代に入り「屯倉神社」と改称されました。

式内社の酒屋神社

屯倉神社の境内には、中臣酒屋連の祖神「津速魂命」を祭る「酒屋神社」が存在します。古墳時代の三宅は中臣酒屋連が治めていました。

屯倉神社

中臣氏は神事に関わる職にあり、中臣酒屋連は神に捧げる酒造りに関わっていたと言われています。酒屋神社は延喜式にも記載されている由緒ある式内社ですが、1907年に屯倉神社へ合祀。

酒屋神社

もともと酒屋神社は、屯倉神社の北西に鎮座していました。旧神社跡近くにあった「酒屋井」と言う井戸から酒屋神が出現した事から「酒屋権現」とも称していました。

旧社地には「権現山古墳」という前方後円墳が存在しており、古墳名は「酒井権現」が由来とされています。現在の旧社地は児童公園として整備され、権現山古墳も消滅しています。現在の旧社地には、酒屋神社の記念碑と、「酒倉大神」という小さな祠が存在しています。

酒倉大神
酒倉大神

屯倉神社の文化財

屯倉神社には
・近衛信尋自画「渡唐天神像」
・後陽成天皇筆「菅原道真画像」
・近衛基熙筆「南無天満大自在天神」名号
など、菅原道真に関する文化財がいくつか保管されています。

近衛信尋は後陽成天皇の四男で、藤原北家の流れをくむ近衛家の養子になった人物。近衛基熙は近衛信尋の孫になります。後陽成天皇の妻も近衛家の出身であり、近衛家にまつわる作品が保管されています。

菅原道真を讒言で陥れた藤原時平は、藤原北家の当主でした。時平は、菅原道真を陥れますが、後に病で命を失います。当時の人々は菅原道真のたたりとして恐れ、各地に道真を祭る天満宮が作られました。

後陽成天皇や近衛信尋の活躍した時代は戦国時代の終わりから江戸時代の初期にあたります。天下を治めた豊臣秀吉は、自らの権威を高めるために朝廷を利用しました。そのため秀吉時代の朝廷は、厚く遇されていました。

しかし徳川家康の時代に入ると、朝廷は監視され、様々な制約を受けました。朝廷にとってはめまぐるしく変わる情勢に、非常に不安と不満を抱えたと思われます。藤原時平の流れをくむ近衛家からすれば、菅原道真は、お家を祟った人物。近衛家の人々が、因縁の深い菅原道真の作品を作るというのは、道真にもすがる思いだったのでしょうか?現在、上記作品は一般公開されていないため、見ることはできません。

現在の屯倉神社

入口鳥居と扁額。屯倉神社の南側入口には「開運松原六社参り」の石碑が存在。屯倉神社は、開運松原六社参りの1社で、毎年1月は多くの人が印を求めて参拝に訪れます。

屯倉神社
開運松原六社参り

その反対側にある「三宅龍王講行者堂」。松原市三宅には、100年以上前から続く龍王講があります。お堂には、役行者神変大菩薩、不動明王、弘法大師、福丸大明神が祭られています。

屯倉神社

行者堂の前に置かれているのは、役行者が使役したとされる「前鬼」「後鬼」と思われます。

屯倉神社
屯倉神社

行者堂北側にある「日露戦役紀念碑」。松原市には出征者を記した石碑などをよく見かけます。

屯倉神社

北側にも入口があり、こちらは赤い鳥居が存在しています。

屯倉神社

鳥居をくぐると「みかえり橋」と彫られた短い石橋があり、直進すると「社務所」、右へ曲がると「注連柱」が存在します。

屯倉神社
屯倉神社

境内には、菅原道真にちなんで「梅」が多く植えられています。毎年3月初旬には「梅まつり」が開催され、多くの人で賑わいます。

屯倉神社と梅

石畳の参道沿いに社殿へ向かうと左にある手水舎。

屯倉神社

社殿の前にある「神形石」。玉垣に囲まれて、触れることはできません。神形石の手前には、菅原道真が詠んだと伝わる「梅が香を袖にうつしてとどめては 春は過ぐとも形見とおもハむ」と歌われた石碑が建てられています。

屯倉神社

道真にゆかりの深い「神牛の像」。菅原道真が左遷先の大宰府に向かう途中、暗殺者に命を狙われますが、白牛に助けられたという伝説が残っています。

屯倉神社

屯倉神社の社殿と狛犬。この社殿は1792年に建てられた後、1988年に現在の社殿に建て直されています。

屯倉神社
屯倉神社

境内には10m以上の大楠がいくつもそびえ、鎮守の森を形成しています。

屯倉神社

酒屋神社の手前にある「鬼瓦」。これは、1792年に建てられた旧社殿の屋根に葺かれていた瓦を使って組み立てられたもの。新社殿造営30周年を記念してここに置かれています。

屯倉神社

屯倉神社社殿の左には酒屋神社をはじめ、多くの摂社が建てられています。中心に酒屋神社が存在し、左に市杵島姫社、右に琴平神社が建てられています。

屯倉神社
酒屋神社
屯倉神社
屯倉神社

琴平神社の右には天照大神社素盞嗚神社大物主神社日吉神社が合社された建物。その隣には天津神社が建てられています。屯倉神社の境内には多くの摂社が存在していますが、周辺から合祀されたものかは不明です。

屯倉神社
屯倉神社

菅原道真が座ったとされる「神形石」、等身大の菅原道真像、道真ゆかりの美術品、白牛、梅林など、屯倉神社には道真ゆかりのものが数多く存在します。南河内で菅原道真と言えば道明寺天満宮が有名ですが、屯倉神社も道真ゆかりの場所として楽しめるのではないでしょうか。

御朱印

御朱印書き置き
初穂料300円

屯倉神社データ

神社名屯倉神社
住所大阪府松原市三宅中4丁目1番8号
祭神菅原道真・素戔鳴命・品陀別命
摂社酒屋神社・天津神社・日吉神社・大物主神社・素盞嗚神社・天照大神社・琴平神社・市杵島神社
旧社格村社
式内社なし
祭事1月:とんど
3月:初旬の土日 梅まつり
7月:夏祭り
10月:秋祭り
参考資料・松原市ホームページ
・松原の神社
・大阪府神社名鑑

アクセスと駐車場

・公共交通機関
近鉄南大阪線「河内松原駅」下車。北出口より、中高野街道を北へ徒歩20分程直進。府道187号線と交差する三宅横断歩道橋すぐ。

・自動車
屯倉神社には数台の駐車場が存在します。国道309号線「三宅新道」を西へ曲がり府道187号線へ。西へ直進し、三宅横断歩道橋のある交差点すぐ。

周辺スポット

阿保神社
屯倉神社から徒歩約12分の場所にある神社。平城天皇の息子である阿保親王の住宅跡に創建されたとされる神社です。

・熱田神社
屯倉神社から徒歩約10分の場所にある神社。大阪で日本武尊を主祭神とする数少ない神社の一つです。

・大堀八幡神社
屯倉神社から徒歩約8分の場所にある神社。鎌倉時代末期に深居神社より品陀和気命(応神天皇)を勧請したと伝わる神社です。

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