南河内の神社を紹介する「となりの鎮守様」シリーズ。今回は、羽曳野市古市にある「高屋神社」です。高屋神社は、延喜式神名帳に記載された由緒ある神社として知られています。
高屋連が創建したと伝わり、饒速日命(にぎはやひのみこと)と広国押武金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)が祭られています。創建した高屋連と、祭神である饒速日命と広国押武金日命にはどのようなつながりがあるのでしょうか?今回は、羽曳野市古市にある「高屋神社」を紹介します。
高屋神社とは
社伝によると、538年に宣化天皇の勅命により、この地に創建されたといわれています。927年に編纂された延喜式神名帳に記載されており、古市郡に2社ある式内社のうちの一つ。
高屋神社では、饒速日命と広国押武金日命を祭神としています。饒速日命を祭っていることから、高屋神社を創建したのは、古市周辺を本拠地とした「高屋連(たかやむらじ)」が創建したと考えられています。
では、饒速日命を祭ることがなぜ高屋連であるとされるのでしょうか?
高屋連と饒速日命の関係
平安時代に編纂された古代氏族名鑑「新撰姓氏録」によると、「高屋連 同神(饒速日命)十世孫 伊己止足尼大連之後也」と記されています。「伊己止足尼大連(いことのすくねおおむらじ)」とは、「物部五十琴(もののべのいこと)」をさすようで、高屋連は物部氏に連なる一族とされています。
高屋連は、物部氏の祖神である「饒速日命」を祭るために高屋神社を創建したと思われます。一説には饒速日命ではなく、伊己止足尼大連を祭ったとの説もありますが、詳細は不明。
高屋連に関しては、羽曳野市に隣接する太子町からは「高屋連枚人墓誌」が出土しています。この墓誌は、縦26cm×横18cm×厚さ12cmの石版に高屋連のことが37文字に記されています。
この石に刻まれた墓誌には下記のように刻まれています。
「故正六位上常陸国 大目高屋連枚人之 墓宝亀七年歳次丙 辰十一月乙卯朔廿 八日壬午葬」
内容は「776年頃に正六位上の位にある高屋連枚人が、常陸国に赴任中に死去した」とあります。大目という役職についていたことから、高屋連は中級貴族に属していたようです。
江戸時代に叡福寺東方丘陵あたりがら出土したと伝わっていますが、古市の本拠地から離れた太子町からなぜ出土したかは分かっていません。
平安時代前半までは、高屋連の名前が記録にでてきますが、その後は目立った官人を輩出できず、徐々に衰退したようです。
広国押武金日命と高屋神社
高屋神社では、饒速日命の他に広国押武金日命を祭神としています。広国押武金日命とは、第27代天皇である安閑天皇になります。広国押武金日命は、後世に祭神に加えられたといわれています。理由はハッキリしませんが、高屋神社の北に存在する安閑天皇陵が関係しているといわれています。
安閑天皇と物部氏には、つながりがあります。安閑天皇には3人の妻がいましたが、その一人が物部木蓮子(もののべのいたび)の娘、物部宅媛(やかひめ)です。
安閑天皇は、継体天皇の息子にあたります。武烈天皇の代で仁徳天皇系統が途絶えたため、豪族たちは、応神天皇系統の継体天皇を福井より擁立します。
継体天皇は近畿に地盤がないため、息子の皇后に仁徳天皇系統である仁賢天皇の娘を迎えています。さらに近畿の有力豪族である物部氏や巨勢氏などからも妻を迎え、近畿での地盤を固めようとしています。安閑天皇陵が河内に築造された理由は、義父である仁賢天皇陵が、河内に存在するためともいわれています。
さらに河内の中でも、高屋連の本拠地である古市周辺に築造されたのは、物部氏とのつながりを考慮された可能性もあります。高屋神社の創建を命じた宣化天皇は、安閑天皇の弟にあたります。高屋神社創建に当たっては、兄の陵を本拠地に持つ高屋連になんらかの配慮があったのかもしれません。
その後の高屋神社
もともと高屋神社は、現在地とは異なる場所にあったといわれています。すぐ北にある「高屋八幡山古墳」の墳丘に存在した説や、その北にある「城山姥不動明王」に存在した説などがあります。
高屋八幡山古墳は、安閑天皇の皇后である春日山田皇女の陵とされています。皇族の陵に社を建てるの考えにくいですが、高屋神社は江戸時代「八幡社」と称していました。
江戸時代に描かれた「諸国古城之図」には、高屋八幡山古墳の前に鳥居が記載されています。古墳に「八幡」とつくことから考えると、高屋八幡山古墳付近にあったように思えます。
1868年(明治元年)に高屋神社に改称。1872年(明治5年)に村社に列しますが、1904年(明治41年)5月11日に白鳥神社に合祀されます。1954年(昭和29年)に白鳥神社から独立して現在地に復社し、現在に至ります。
現在の高屋神社
高屋神社は、羽曳野市中央部にある高屋丘陵に存在します。
高屋丘陵には、安閑天皇陵である「高屋築山古墳」や春日山田皇女陵である「高屋八幡山古墳」が存在する歴史的な土地として知られています。室町時代後半には、安閑天皇陵を本丸とした「高屋城」が築城され、南河内を統治する中心地でもありました。
高屋城を東高野街道が南北に縦断しており、関所的な役割もあったようです。現在の高屋神社も、東高野街道沿いに存在します。
かつては、高野山参りで賑わったであろう街道も、今はほっそりとした道に。
高屋神社の手前には、小さなお堂。
神社入口横にある摂社「宮守稲荷大神」。稲荷社ですが、白く塗られた鳥居が特徴。
社の脇に「高屋神社址」と刻まれた石碑が置かれています。白鳥神社に合祀された時に建てられたものでしょうか?
高屋神社は、宮司さんの常駐しない小規模な神社です。過去に合祀された神社は、復社したときには敷地が狭くなるケースがよくあります。
拝殿の左側にも小さな摂社が存在。祭神など表示されていないため、誰を祭っているのかは不明です。
拝殿前の鳥居には「平成13年12月」と刻まれており、比較的最近建てられたものです。
拝殿や狛犬も新しい雰囲気なので、同時期に建てられたと思われます。
本殿は、壁に囲まれており、姿を見ることはできません。饒速日命と広国押武金日命(安閑天皇)という不思議な組み合せですが、物部氏を通じてつながりがあるところに、古代史の面白さがあります。由緒ある式内社は、非常に美しく保たれており、地域の人々から大切にされていると感じました。
高屋神社データ
神社名 | 高屋神社 |
住所 | 大阪府羽曳野市古市6丁目12 |
祭神 | 饒速日命、広国押武金日命 |
摂社 | 宮守稲荷大神、祭神不明の1社 |
旧社格 | 村社 |
式内社 | 式内小社 |
祭礼 | |
参考資料 | ・神社案内板 ・大阪府神社名鑑 ・羽曳野市史 |
アクセスと駐車場
・公共交通機関
近鉄南大阪線「古市駅」下車。駅から西に歩き、国道旧170号外環状線「白鳥交差点」にでるので、国道沿いに南へ歩きます。10分ほど歩き「城山交差点」を少し超えたところで、左側にある細い路地に入ります。少し歩いたところに高屋神社が存在します。
・自動車
高屋神社周辺に駐車スペースはありません。古市駅周辺に駐車場がいくつかあるので、そこから徒歩がオススメです。
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