南河内の古墳を紹介する「ぶら古墳シリーズ」。今回は、羽曳野市高鷲にある「雄略天皇陵」です。雄略天皇陵は、島泉丸山古墳と、隣接する島泉平山古墳の2基で構成された特殊な天皇陵として知られています。
このようなスタイルは全国でも類のない天皇陵ですが、なぜ2つの古墳で一つの天皇陵となっているのか?今回は、雄略天皇陵こと「島泉丸山古墳」と「島泉平山古墳」を紹介します。
雄略天皇とは
雄略天皇の名は、大泊瀬皇子といい、父は允恭天皇、母は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。兄弟に木梨軽皇子、坂合黒彦皇子、八釣白彦皇子、穴穂皇子(安康天皇)がいます。
第20代の安康天皇が、眉輪王に暗殺されると、後継者を巡り不穏な空気が漂います。そんな中、大泊瀬皇子は自身が皇位を継ぐ好機ととらえ行動に移しました。手始めに、暗殺事件への対応の遅さを理由に兄の八釣白彦皇子を殺害。次に眉輪王と共に大臣の館に逃げた坂合黒彦皇子を、館ごと焼き払ってしまいました。
次に狙われたのが、従兄弟の市辺押磐皇子でした。市辺押磐皇子は、17代履中天皇の息子で大泊瀬皇子の従兄弟にあたります。
市辺押磐皇子は皇位継承者として有力な人物であったため、大泊瀬皇子は、市辺押磐皇子を狩りに誘い謀殺。競争相手を粛正した大泊瀬皇子は、ついに皇位を継承します。
雄略天皇の猛々しい性格は即位後も変わらず、些細なことで人を殺害することもあったといわれています。ただ、この攻撃的な性格は、大和王権の勢力拡大にプラスに作用しました。
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雄略天皇は英雄か?暴君?か 南河内ゆかりの地〜雄略天皇陵・志貴懸主神社〜
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埼玉県の稲荷山古墳や熊本県の江田船山古墳からは、雄略天皇を表すとされる文字が刻まれた剣が出土しています。
この点から、雄略天皇が東日本から九州まで強い影響力を及ぼしていたと考えらえられています。
また雄略天皇は、外交にも力を入れていました、治世においては、百済とのつながりを深め、高句麗や新羅と争って倭国の存在感を示しています。
このように雄略天皇は、暴虐な一面を持ちつつも、内外に大和王権の影響力を拡大した強力な指導者でもあったようです。
雄略天皇の死後、日本書紀によると「丹比高鷲原陵」に葬られたと記されています。この記述から、羽曳野市高鷲にある「島泉丸山古墳」と「島泉平塚古墳」の2基が、宮内庁により雄略天皇陵に比定されています。
また、羽曳野市と松原市にまたがる「河内大塚山古墳」も宮内庁より雄略天皇の陵墓参考地としてされています。
2つの古墳に行ってみました
雄略天皇陵がなぜ2基の古墳から構成されているのか?上から見るとわかりますが、ちょっと不自然な前方後円墳であることがわかります。
後円部の周囲は濠にかこまれており、前方部とつながっていません。つまり、後円部に当たる部分が「島泉丸山古墳」、前部分にあたる部分が「島泉平塚古墳」というわけです。
まずは、遥拝所のある「島泉平塚古墳」へ行ってみましょう。
島泉平塚古墳へ
島泉平塚古墳は一辺50m、高さ8mの方墳。墳丘は2段、もしくは3段築成とされ、埋葬施設は不明とされています。
島泉平塚古墳の東側には「陵東遺跡」が存在し、2020年の発掘調査から力士、男子、盾持ち人などの象形埴輪が出土しています。どうやらこの場所に古墳があったという訳ではなく、埴輪が捨てられていた可能性があるとのこと。出土した埴輪と雄略天皇陵につながりについては不明です。
島泉平塚古墳は、ちょうど羽曳野市と藤井寺市の境界近くに存在。古墳の北側は住宅地、東側は遥拝所、西側は島泉丸山古墳に接しており、墳丘を確認できるのは南側からと遥拝所からになります。
島泉平塚古墳の南側は林になっており、唯一墳丘全体を確認することができます。パッと見た感じでは、西から東にかけて緩やかな傾斜をもつ墳丘のようです。
こちらが雄略天皇陵の東側にある参道。とりあえず作った感じの道ですので、ワザワザこちらから行く人は少ないかもしれません。
こちらが遥拝所の正面。一段上がったところに遥拝所が設けられており、他の天皇陵同様「鳥居」「玉垣」「案内板」「詰所」により構成。
この島泉平塚古墳ですが、もともとは雄略天皇陵には含まれていませんでした。江戸時代末期までは、隣接する「平泉丸山古墳」のみが雄略天皇陵に比定されていました。
しかし、強大な力を持った天皇の墓が円墳ではおかしいということで、幕末に「平塚」と呼ばれていた場所が雄略天皇陵として整備されるようになりました。
そんな経緯もあり、島泉平塚古墳が本当に古墳であるかについては疑問が持たたれています。
それでは、次に「島泉丸山古墳」へ行ってみます。
島泉丸山古墳へ
島泉丸山古墳は、島泉平塚古墳から100mほどの場所に存在します。古墳の規模は直径75m、高さ8mの円墳。墳丘は2段築成からなり、周辺から土師器、須恵器、埴輪が出土しています。
築造時期は5世紀後半とされており、雄略天皇の活躍した時期に築造されています。円墳としては、古市古墳群の中でも最大規模。
もともと江戸時代末期までは、島泉丸山古墳のほうへ遥拝所が築かれていたようです。後に島泉平塚古墳が雄略天皇陵に含まれたため、現在の場所に移設されています。
島泉丸山古墳の西と南は住宅地、東は島泉平塚古墳と接しているため、北側からのみ全景を見ることができます。
古墳の北東側には「高鷲原」と彫られた石碑が建てられています。これは元治元年(1864年)に島泉丸山古墳に遥拝所が建てられたときに、地元の名士が設置したといわれています。
写真の奥が、島泉丸山古墳と島泉平塚古墳が隣り合っている箇所になります。両古墳の間を濠が隔てているのがみえるでしょうか。
島泉丸山古墳は美しい円形を誇る古墳ですが、一部は江戸時代の陵墓整備の際に整形されています。築造時の姿とは一致していないかもしれませんが、濠幅の広さと合わせて見ごたえのある古墳となっています。
ただ雄略天皇の時代における大王は、前方後円墳であることから、島泉丸山古墳に雄略天皇が埋葬されているかは疑問視されています。羽曳野市と松原市にまたがる「河内大塚古墳」が雄略天皇の陵墓参考地とされているように、こちらが雄略天皇陵との説もあります。
前方後円墳の規模からするとふさわしいといえますが、河内大塚古墳は雄略天皇の時代より後に造られおりその可能性は低いとのこと。一説には、藤井寺市にある「仲哀天皇陵」が時期や規模からみて雄略天皇の真陵との説がありますが、確かなことは分かっていません。
ちなみに、島泉丸山古墳の近くに「隼人塚古墳」という陪塚が存在します。雄略天皇が崩御した際に殉死した隼人の墓との言い伝えが残っており、宮内庁より「飛地い号陪塚」に指定されています。
ただ隼人塚古墳は周囲を住宅地に囲まれており、墳丘はわずかにすきまからみることしかできません。また隼人塚古墳は「ハイト塚」ともいわれ、歯痛の神様として崇められているそうです。
まとめ
今回は、雄略天皇陵に比定されている島泉丸山古墳と島泉平山古墳を紹介しました。2つの古墳を合体させて無理やり前方後円墳にみせかけたというユニークな古墳ですが、本当は誰のお墓なのでしょうか?古市古墳群における地元豪族の墓?大和王権の関係者の墓?もしかして本当に雄略天皇陵?色々と想像するのも楽しいですね。
雄略天皇御陵印
受領場所 | 宮内庁古市陵墓監区事務所 |
住所 | 大阪府羽曳野市誉田6丁目11−3 |
アクセスと駐車場
・公共交通機関
近鉄南大阪線「高鷲駅」下車。駅から少し西に歩き、府道191号線を北に歩きます。しばらく歩き、堺大和高田線「島泉交差点」を横断しさらに直進。つきたありを右折し、しばらく歩くと「島泉丸山古墳」が見えてきます。
・自動車
雄略天皇陵に駐車場はありません。雄略天皇陵の近くに2ヶ所ほどコインパーキングがあるので、そこから徒歩がオススメです。
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雄略天皇陵詳細
古墳名 | 島泉丸山古墳・島泉平塚古墳 |
宮内庁名 | 丹比高鷲原陵 |
墳形 | 島泉丸山古墳:円墳 島泉平塚古墳:方墳 |
規模 | 島泉丸山古墳:直径75m 島泉平塚古墳:一辺50m |
高さ | 島泉丸山古墳:8m 島泉平塚古墳:8m |
築造時期 | 5世紀後半 |
埋葬施設 | 不明 |
被葬者 | 雄略天皇 |
参考資料 | 案内板・雄略天皇陵と近世史料 |
案内板
雄略天皇陵は、埼玉県稲荷山古墳で出土した鉄剣の銘に「獲加多支鹵(ワカタケル)」と記され、「古事記」では「御陵は河内の多治比の高鸇にあり」「日本書紀」には「丹比高鷲原陵に葬りまつる」と伝えられています。
現在は直径75mの島泉丸山古墳と一辺の長さが50mの島泉平塚古墳が前方後円墳に整備され、雄略天皇陵高鷲原陵として治定されています。
「日本書紀」には「雄略天皇に仕えていた隼人が、悲しみのあまり物も食べず泣き続け、7日目に死んでしまったので、その墓を御陵の北に造って葬った」という物語が記されています。