自分の住んでいるところが江戸時代何藩だったか気になることってよくありますよね?いやそんなにないですね。
色々調べてみると意外なことに「藤井寺市全域は〇〇藩だった」というものはありませんでした。では藤井寺市の歴史を振り返りながら、江戸時代に藤井寺はどういう状況だったのかを見ていこうと思います。
名称変更 美陵町→藤井寺市
藤井寺市の前は「美陵町」と呼ばれていました。これは市民からの公募と投票で決められたそうです。美陵とかいて「みささぎ」と読みます。「陵」とはお墓の事、つまり古墳。美しい古墳の景観をイメージしています。
消火栓の蓋に美陵町の名残があります
二つの町が合併
美陵町の前は「藤井寺道明寺町」という町名でした。元々は藤井寺町と道明寺町の2つの町に分かれていました。こんな名前になったのは合併して地名から自分達の町名が消えるのが嫌だったんですね。
「藤井寺道明寺町」という名前はひらがな読みをすると日本で一番長い名前だったそうです。書類に町名を書くときとか面倒くさそうですね・・・
4つの村から2つの村に
藤井寺町と道明寺町ですがその前は藤井寺村と道明寺村と呼ばれていました。藤井寺村は小山村と藤井寺村が合併してできたもの。道明寺村は道明寺村と沢田村が合併したものです。
藤井寺村はもともと長野村と呼ばれていましたが、河内長野にも長野村ができてややこしいという事で藤井寺村に名称変更しています。
14の村が4つの村に
長野村、道明寺村、小山村、沢田村とでてきたわけですが、これらの村もいくつかの村が合併してできた村です。合併する前の内訳はこうなります。
沢田村 沢田村 ・古室村・林村
これが幕末の藤井寺市の内訳です。藤井寺市で1つの藩ならここまで詳しくさかのぼらなくてもよかったのですが、実は村単位で治めていた支配層が異なっていました。支配層の内訳は以下になります。
寺 領 1村 道明寺村
天領とは幕府直轄領です。厳密にいえば、旗本の領地も含まれます。天領が一番大きな割合を占めています。
不思議なことに関東の小田原藩と沼田藩が藤井寺に領地を持っています。詳しい経緯は分かりませんが、当時は村単位での領地替えがよく行われていたそうです。しかし、関東に領地をもつ藩に南河内の村を与えるとは嫌がらせみたいですね・・・
伯太藩は和泉国、すなわち今の和泉市を中心に領地を持つ藩です。この藩もなぜか河内と近江に飛び地を持っています。
寺領というのは道明寺の領地になります。
結 論
意外な土地の意外な藩の領地になっていました。村ごとに役人を派遣していたら結構大変なので領地運営は庄屋に任せていたのかもしれませんね。
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