国道170号線を走っていると、「錦織神社」と書かれた大きな看板を目にする方は多いと思います。実は、この錦織神社が、徳川家康を祭る日光東照宮の建築様式に、影響を与えていたという事をご存じでしょうか?
場所も時代も全く異なる錦織神社と日光東照宮。錦織神社の建築様式は、日光東照宮にどのような影響を与えたのか?今回は富田林市にある錦織神社の歴史と、建築様式について紹介します。
錦織神社の歴史
錦織神社周辺には、錦織遺跡、甲田遺跡などが存在し、古くから多くの人が暮らしていました。錦織神社の西に広がる羽曳野丘陵には、多くの古墳が築かれており、この一帯を有力な豪族が治めていたようです。
現在の河内長野市全域と富田林市の一部は「錦織部」と言われ、錦や綾を織る百済系の職能集団が治めていました。錦織部を治めていた氏族は、祖神を祭る神社を建立したと思われますが、それが錦織神社かは不明です。
錦織神社の主祭神は、建速素戔嗚命(スサノオ)、品陀別命(応神天皇)、菅原道真を祭っています。素戔嗚以外は比較的新しい神様で、この祭神から錦織神社を建立した一族が、どのような系統かはわかりません。
1935年の本殿修理時に地中から平安時代中期の瓦が出土していますが、927年にまとめられた「延喜式神名帳」には記載されていません。この事から927年以降の平安時代に創建されたと思われます。
錦織神社は、錦織部の「一の宮」と言われ、河内長野市の「建水分神社」、富田林市の「美具久留御魂神社」と合わせて「河内三水分」の一つとして称えられていました。
かつては、水郡神社または水郡天王宮と呼ばれていましたが、明治40年に錦織神社に改称されています。
錦織神社と日光東照宮
本殿は、1363年に創建。南北朝時代の真っ只中で、南河内では、楠木正成の息子「楠木正儀」が活躍していた時期です。錦織神社の本殿は総檜皮葺の3間入母屋造り。この本殿の建築様式が日光東照宮の拝殿に影響を与えたといわれています。
錦織神社本殿の屋根正面には、軒唐破風の上に千鳥破風を乗せた様式が取り入れられています。軒唐破風やら千鳥破風と言われても何のことか分からないのですが、破風とは屋根の正面につけられた装飾です。軒唐破風の上に千鳥破風を乗せるとは写真で説明するとこんな感じです。
この様式は「錦織造り」とも呼ばれ、江戸時代の神社では、多く取り入れていたそうです。しかし南北朝時代にこの様式を取り入れていた神社は、非常に珍しいとの事。
利用できる日光東照宮拝殿の写真が無いので見比べて紹介できませんが、日光東照宮拝殿も2種類の破風が重なっているように見えます。(有名な陽明門ではなく拝殿の方です。)
南河内にある神社が、徳川家康を祭る日光東照宮に影響を与えていたとは、不思議な関係ですね。
錦織神社と天誅組
錦織神社には、もう一つ気になるものが存在します。それは錦織神社の参道ある「天誅組記念碑」という石碑。錦織神社と天誅組にはどんな関係があるのでしょうか?幕末で日本中が揺れていた1863年、公卿である中山忠光を主将に、脱藩志士を中心とした「天誅組」が倒幕運動を起こします。
実は、南河内からも多くの人々が天誅組参加しています。天誅組河内勢のリーダーは、水郡善之祐(にごり ぜんのすけ)と言い、錦織神社(当時の社名は水郡神社)の祠官でもありました。水郡善之祐は、錦織周辺の大地主でもあり、天誅組に金銭や物資面で多く支援したそうです。
中山忠光率いる天誅組は、堺から狭山を経て大和へ向かっていました。天誅組は途中で富田林に寄り、水郡善之祐の館で河内勢数17名と合流。その中には、水郡善之祐の13歳の長男、水郡英太郎も参加していました。
総勢200名ほどになった天誅組は、富田林から奈良の五条へ向かい、代官所を襲撃。ついに江戸幕府に対して挙兵します。勢いに乗る天誅組でしたが、京都で政変が起こり天誅組に追討の命が下されると、一転窮地に立たされます。
天誅組は、奈良県五條市にある「天の辻」に立てこもりますが、幕府軍の総攻撃により壊滅。天誅組に参加していた河内勢も多くの仲間を失い、水郡善之祐は紀州藩に投降後、京で処刑。ただ、長男の英太郎は、若年と言うことで助命されました。
天誅組の変は倒幕に失敗しましたが、公然と幕府に武装蜂起したことで幕府の権威は低下。天誅組の変は、後に続く倒幕運動に大きな影響を与えたと言われています。「天誅組記念碑」は、明治維新後に天誅組河内勢の功績を讃え、建てられたものです。
現在の錦織神社
テニスで有名な錦織圭選手の読み方は「にしこり」ですが、錦織神社は「にしきおり」と読みます。しかし錦織神社の南にある錦織公園は「にしこおり」と読み、「錦織」という名前だけでも様々な読み方があります。
錦織神社の鳥居をくぐると、まず目に入るのはとても長い参道です。これほど長い参道は、河内長野市の住吉神社に匹敵するのではないでしょうか?
この参道では、かつて流鏑馬が行われており「馬場先」ともいわれています。住吉神社の長い参道も「馬駆神事」と呼ばれる馬の行事が行われています。長い参道には意味があるんですね。
参道を少し歩くと、左側に「天誅組記念碑」が見えてきます。こちらの石碑に、河内から天誅組に加わった人々の名前が刻まれています。
石碑の隣には「和田佐市碑」と書かれた石碑がありますが、和田さんも河内から天誅組に加わった一人です。なぜ、この方だけ単独で石碑があるんでしょうか?
水郡善之祐の息子、英太郎は、薩長による倒幕運動が激しさを増すと、再び兵を集めて倒幕運動に参加。英太郎は明治が始まると、政府の一員として活躍しました。
長い参道を抜けると、錦織神社の拝殿が現れます。拝殿は社務所も兼ねており、御朱印や、お守りを購入することができます。
拝殿を抜けると、本殿手前には天神社と春日社の2つの摂社が存在。どちらも本殿同様に重要文化財に指定されています。しかし、片方の摂社に堀があるのは何故なのか…
本殿は漆、丹塗、彩色が施された装飾が施されています。南河内でこれほど鮮やかな神社は、河内長野市の加賀田神社ぐらいではないでしょうか。
この本殿は、一見の価値があることは間違いありません。本殿エリアは広く、美しい花が植えられており、華やかな空間になっています。
しかしよく考えてみたら、徳川家康を祭る日光東照宮に影響を与えた神社の境内に、倒幕の先駆けとなった天誅組の石碑が同じ敷地にあるというのは不思議な感じですね。
御朱印
御朱印 | 書置き |
初穂料 | 300円 |
錦織神社データ
神社名 | 錦織神社 |
住所 | 大阪府南河内郡千早赤阪村千早 |
祭神 | 建速素戔嗚命・品陀別命・菅原道真 |
摂社 | 弁財天・金刃比羅宮・天神社・春日社 |
旧社格 | 郷社 |
式内社 | なし |
祭礼 | 1月1日:元日祭 1月第2月曜:どんと祭 2月3日:鎮魂祭(節分) 4月:春祭 7月:夏祭 10月第2土曜:秋季大祭(だんじり宮入、神輿お渡りの儀) 12月:新嘗祭 |
参考資料 | 案内板 大阪府神社名鑑 富田林市ホームページ |
アクセスと駐車場
最寄り駅は、近鉄長野線「川西駅」。駅出口から左へ曲がり、近鉄の高架をくぐります。道が二手に分かれているので、右の道を5分ほど歩くと錦織神社の鳥居が見えてきます。
車の場合、参道脇から奥に進むと、境内に駐車スペースがあります。旧170号線から行く場合は、川西駅前(甲田)交差点を西に曲がり、直進。あとは、徒歩のルートと同じです。170号線から行く場合は、新家交差点を東へ曲がります。すぐにある「2中前交差点」で北へ曲がり、直進すると神社の鳥居が見えてきます。
周辺スポット
水郡邸
錦織神社から徒歩10分程の場所にある水郡邸。伊勢神戸藩の代官で、大庄屋でもありました。天誅組と合流した水郡善之祐は、この邸宅で今後の方針を決めたと言われています。昭和49年3月29日に大阪府指定文化財として史跡指定。
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