南河内の古墳を紹介する「ぶら古墳シリーズ」。今回は、藤井寺市にある「仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)」です。百舌鳥古市古墳群の一つで、世界文化遺産リスト「23」に登録されています。
「仲哀」という名は死後に付けられた諱(いみな)ですが、仲哀天皇は文字通り少し哀しい最後をとげてしまいます。仲哀天皇は、いったいどのような理由で亡くなってしまったのか?今回は、仲哀天皇が祭られているという「仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)」を紹介します。
仲哀天皇はどんな人物?
仲哀天皇は、叔父である成務天皇の跡を継いで第14代天皇に即位。父は日本武尊、妻は神功皇后、息子は応神天皇という濃い家族。
こんな濃い家族に囲まれているせいか、仲哀天皇の存在感と知名度はあまり高くありません。
仲哀天皇は長門国豊浦と筑紫国香椎に都を築き国を治めました。在位は9年という短い期間で、エピソードはあまり多くありません。日本書紀によると仲哀天皇は、父である「日本武尊」をしのび、陵の濠に白鳥を飼おうと全国から白鳥を集めます。
しかし、越国から献上されてきた白鳥を異母弟の「蘆髪蒲見別王(あしかみのかまみわけのみこ)」が白鳥を強奪。それを知った仲哀天皇は激怒して蘆髪蒲見別王を誅殺したとあります。
天皇が集めてる白鳥を奪う蘆髪蒲見別王も大人気ないですが、すぐさま抹殺する仲哀天皇の短気さ…。のちの天皇である雄略、武烈天皇も気短な天皇なので、日本武尊系統は血の気が多いのかもしれません…
仲哀天皇は文字通り少し哀しい最後を迎えます。九州の香椎宮で「熊襲」討伐の準備をしていた時のこと。御神託を頂くため、仲哀天皇が琴を弾くと、妻の神功皇后に神が降臨。
神は「西に豊かな国があるので、その国を従わせよ」と告げます。しかしここは日本の西端である九州、これ以上西には海しかありません。仲哀天皇はこの神は偽りの神と信じて琴を弾くのを止めてしまいます。
そんな態度を見た神は「お前は、私が教えた国どころか、今の国すら治める資格はない!この世の国ではない遠い国へ行け!」とブチ切れてしまいます。天皇の気が短ければ、神様も気が短いワイルドな時代。
神の態度に恐怖した側近「武内宿禰」の勧めで渋々と琴を弾き直しますが、弾き始めた所で仲哀天皇は突如息絶えてしまいます。朝廷大パニック。神が伝えようとした国は、海を渡った朝鮮半島の新羅でした。神功皇后は神のお告げを受け継ぎ、朝鮮半島を平定したと言われています。
仲哀天皇は崩御後「河内の恵賀の長江」つまり、現在の仲哀天皇陵に祭られたとされます。仲哀天皇の跡を継いだ応神天皇以後も、ヤマト王権は益々力を強めていきました。それに伴い、古墳の規模も最盛期を迎えます。
仲哀天皇陵とは
墳丘の長さ242m、高さ20mの前方後円墳。藤井寺市で2番目、全国で16番目の規模を有します。古墳内は宮内庁が管理しており、埋葬施設など詳しいことはよく分かっていません。ただ、出土した埴輪から5世紀後末頃と考えられています。
5世紀末頃は、古墳の小型化が進んでいましたが、仲哀天皇陵はこの時期では、特に巨大な古墳とされています。仲哀天皇陵の古墳名は「岡ミサンザイ古墳」。古墳名の由来として「岡」は地名、「ミサンザイ」は「陵(ミササギ)」が訛ったとされています。
しかし現在の藤井寺市「岡」は仲哀天皇陵よりも少し北に存在します。何故、古墳名を「岡」としたのかは不明。
中世入ると河内は戦乱が訪れ、古墳にとっては受難の時代となります。墳丘と周濠を持つ古墳は絶好の防御拠点として、城郭に改造されてしまいます。仲哀天皇陵も戦国期に、城郭に改変されています。一説には「高屋城の戦い」において、高屋城と新堀城の連携を維持するため、中間拠点として利用されたと言われています。
また、大坂夏の陣「道明寺の戦い」において、豊臣方が東から攻める徳川方を迎え撃つ拠点として利用されたという説もあります。
仲哀天皇陵の陪塚
仲哀天皇陵には陪塚とされる「鉢塚古墳」が北に存在します。宮内庁では仲哀天皇陵の陪塚に比定していないので、自由に入ることが可能。
それ以外にも、現在は消滅した落塚古墳も陪塚だったと言われています。また、仲哀天皇陵のすぐ南に「割塚古墳」と言う1辺30m程の方墳があります。しかし割塚古墳は、仲哀天皇陵よりも1世紀以上昔に築造されたとされ、陪塚には含まれません。
本当に埋葬者は仲哀天皇なのか
宮内庁は岡ミサンザイ古墳を仲哀天皇の陵と比定をしていますが、仲哀天皇ではなく雄略天皇の陵ではないかとの説があります。
宮内庁では羽曳野市島泉にある「島泉丸山古墳」と「島泉平塚古墳」を雄略天皇の陵と比定しています。しかし、雄略天皇ほど力を持っていた天皇が島泉丸山古墳では規模が小さいのではとの説があります。
第21代天皇である雄略天皇の活躍したのは5世紀頃とされており、古墳の築造時期と一致します。仲哀天皇は実在しないのではないかとの説もあります。活躍時期と古墳築造時期の整合性からも、仲哀天皇が埋葬されているかは疑問が残ります。
現在の仲哀天皇陵
藤井寺駅から、仲哀天皇陵に向かいます。藤井寺一番街商店街を抜け、辛国神社の手前まで行くと「仲哀天皇陵参道」の石碑が置かれています。(2023年現在撤去)さらに進み藤井寺小学校の南側にある道を右へ進むと、仲哀天皇陵が存在します。途中に、仲哀天皇陵の陪塚とされる「鉢塚古墳」が存在するので寄ってみるのもいいでしょう。
しばらく道なりに歩いていると、仲哀天皇陵の堤がみえてきます。仲哀天皇陵の周囲は北東の墓地以外、一周することができますが、周囲の道よりも高い場所に堤が築かれており、見渡せる場所は限られています。築造時はこのように水はなく、高い堤もなかったそうです。これは後世に灌漑用としてこのような姿になったとのこと。
更に進むと、仲哀天皇陵の遥拝所へ続く道が見えてきます。道幅も広く、古市古墳群にある天皇陵の中ではもっとも開放感がある遥拝所と言えます。
遥拝所付近は柵もなく、墳丘を間近でその巨大さを感じることができます。ただ、近づきすぎて足を滑らすと濠に落ちてしまうので注意が必要。
遥拝所を抜けた先には案内板が置かれています。
案内板の先には、仲哀天皇の陪塚と思わせて、じつは仲哀天皇陵の100年前に作られたとされる独立した古墳「割塚古墳」が存在します。思いっきり駐車場の中にありますが、案内板があるので、遠慮しながら見学させてもらいます。
そのまま堤沿いを歩くことはできますが、道が狭く柵も高いのであまり見学ポイントがありません。福祉施設に挟まれた細い堤沿いの道を進むと、墓地で行き止まりになります。
仲哀天皇陵の近くには、藤井寺市の歴史展示ゾーンのある「アイセルシュラホール」存在します。藤井寺市の古墳や出土物に関する資料も展示されているので、こちらも寄っておきたいところです。
仲哀天皇御陵印
受領場所 | 宮内庁古市陵墓監区事務所 |
住所 | 大阪府羽曳野市誉田6丁目11−3 |
仲哀天皇陵データ
古墳名 | 岡ミサンザイ古墳 |
宮内庁 | 惠我長野西陵 (えがのながののにしのみささぎ) |
住所 | 大阪府藤井寺市藤井寺4丁目 |
墳形 | 前方後円墳 |
直径 | 242m |
高さ | 20m |
築造時期 | 5世紀末 |
被葬者 | 仲哀天皇(雄略天皇の可能性も) |
埋葬施設 | 不明 |
出土物 | 不明 |
参考資料 | 古市古墳群を歩く |
アクセス
◆公共交通機関
近鉄南大阪線「藤井寺駅」下車。南側出口から線路沿いに東へ歩くと商店街があります。そこから商店街に沿って南に歩き「藤井寺西小学校」をこえると二又に道が分かれます。二又を右に進むと仲哀天皇陵の堤と柵が見えてきます。
◆自動車
仲哀天皇陵の遥拝所近くにコインパーキングが存在します。ただし、9台程しか停めることができないので、駅周辺の駐車場に停めて、徒歩がオススメです。
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