河内大塚山古墳|巨大古墳だけど誰のお墓?〜松原市・羽曳野市〜

大塚山古墳南河内の古墳を紹介する「ぶら古墳シリーズ」。今回は、松原市と羽曳野市にまたがるに「河内大塚山古墳」です。




巨大な前方後円墳ですが、埋葬者については、よくわかっていません。築造時期も隣接する古市古墳群よりも新しく、異色な古墳として存在します。

今回は、そんな謎多き「河内大塚古墳」を紹介します。

河内大塚山古墳について

河内大塚山古墳河内大塚山古墳は、全長335m、高さ20m。古墳規模は、全国で5番目という巨大前方後円墳です。
前方後円墳墳丘には「造出し」「葺石」「埴輪」が見つかっておらず、前方後円墳の中では、後半に築造された特徴を持ちます。2020年の調査で、後円墳部は三段築成だったと推測されています。




また後円部の東南隅に「ごぼ石」と呼ばれる巨石が露出しています。この石は、横穴式石室の一部と考えられています。

上記の特徴から、河内大塚山古墳築造時期は、6世紀後半以降とされています。
大塚山古墳河内大塚山古墳以降、前方後円墳は築造されますが、河内大塚山古墳を超える規模の前方後円墳は造られることはありませんでした。




河内大塚山古墳は、非常に謎に包まれた古墳でもあります。

1,後円墳部に対して、前方部が低平。
2,埴輪が存在しない。
上記の理由から「造りかけの前方後円墳ではないか」とも言われています。

果たして埋葬者は誰か?

埋葬者は明らかになっていませんが、宮内庁は「雄略天皇」を推定埋葬者としています。そのため、河内大塚山古墳は「大塚陵墓参考地」として宮内庁の管理しています。河内大塚山古墳

ちなみに宮内庁的には、羽曳野市にある「島泉丸山古墳」を雄略天皇の陵と比定しています。

雄略天皇陵
雄略天皇陵

地元では、松原市に縁のある阿保親王の墓という言い伝えも残っています。実際に阿保親王の子孫を称する毛利藩より、家老の村田清風が実際に調査に訪れています。

ただ、阿保親王が亡くなった9世紀初めには巨大古墳は築造されていません。また、阿保親王の地位と古墳の規模も釣り合わない為、可能性は低いと思われます。

阿保親王 Wikipediaより

全長335mもの前方後円墳ならば、大王クラスの埋葬者であると考えられます。雄略天皇ほど権力を有した天皇ならこれほど大規模な古墳でもおかしくありません。

ただ雄略天皇の時代と古墳築造時期が合わず、時期的に言えば、安閑天皇、欽明天皇と言う説もあります。

安閑天皇陵
羽曳野市にある安閑天皇陵

しかし結局のところは誰が埋葬されているのかというのは、分からないのが実情のようです。

丹下城と丹下氏

大塚山古墳程良い高さの台地と周濠を持っていると、もれなく例のものに改造されてしまうのが、古墳の宿命なのかもしれません。

河内大塚山古墳も例に漏れず「丹下城」という城が墳丘に築城されました。丹下城を築城した丹下氏は松原市東部の西大塚から高鷲付近を支配していた土豪。丹下氏はこの地に土着した鎌倉時代に丹下城を築城したといわれています。河内大塚山古墳

南北朝時代、丹下氏は北朝方(足利側)に属します。1337年3月に丹下三郎入道西念と南朝の岸和田治が野中寺付近で激突。敗れた丹下三郎入道西念は丹下城に逃げ込みましたが、城の周辺が焼き払われたとの記録が残っています。

野中寺
野中寺

南北朝の争いを乗り切ったりを丹下氏は、戦国時代に入ると河内守護である尾州畠山家に仕えています。丹下氏の当主であった丹下盛賢は畠山稙長に仕え、守護代である遊佐長教によって畠山稙長が紀伊に追放された際も同行しています。




畠山稙長が亡くなった際に丹下盛賢は殉死を遂げ、丹下氏断絶の危機を迎えます。しかし断絶を憂いた遊佐長教は、別の家から丹下氏を継がせ存続を図っています。河内大塚山古墳

1574年、織田信長の高屋城攻めにより河内が平定されると、河内国城郭破却令により丹下城は廃城。

その後、丹下氏は帰農し吉村と名乗ります。吉村家は羽曳野、松原、八尾、大阪市一帯18もの村々を管轄する大庄屋として存続。現在も吉村家の屋敷は国の重要文化財として指定されています。

吉村家住宅 羽曳野
羽曳野市にある吉村家住宅

現在の河内大塚山古墳

丹下城が廃城された後、河内大塚山古墳には前方部に大塚村、後円部に天満宮ができるなど集落が形成されていました。河内大塚山古墳

しかし1925年に宮内庁より陵墓参考地に指定されたため、大塚村は古墳外に移っています。2010年に行われた調査では、村の跡が確認されています。河内大塚山古墳

記録によると江戸時代に「磨戸石」とよばれる横穴式石室の一部が後円部に残っていたと伝わっています。現在でも「ごぼ石」とよばれる横穴式石室の天井石と思われる巨石が残っているようです。

大塚山古墳

あくまでも「陵墓参考地」であるため、遥拝所は存在していません。古墳北西部に古墳とつながる橋があり、河内大塚古墳に関する案内板が存在します。




これほど巨大で見ごたえがある古墳ですが、埋葬者に関する資料もなくとてもミステリアスな古墳となっています。本当は誰が埋葬されているんでしょうか?

アクセスと駐車場

・公共交通機関恵我ノ荘駅近鉄南大阪線「恵我ノ荘駅」下車。駅から西へ10分ほど歩くと河内大塚山古墳が見えてきます。古墳の北半分は堀沿いに歩道が整備されており、鑑賞ポイントは多く存在します。南半分は住宅地に囲まれているため、間近で見ることはできません。

・自動車
河内大塚山古墳の周辺に駐車場はありません。河内松原駅周辺の駐車場から徒歩がオススメです。

周辺スポット

・柴籬神社柴籬神社河内大塚山古墳から徒歩10分程の場所にある神社。反正天皇がおいた場所と考えられています。また反正天皇にちなんで、歯にご利益がある神社として知られています。

柴籬神社|かつての都には意外なご利益があった!【御朱印】〜松原市・アクセス〜

・阿保神社阿保神社河内大塚山古墳から徒歩20分程の場所にある神社。在原業平の父である阿保親王の邸宅があった場所と考えられています。

阿保神社|毛利家と阿保親王の意外な関係【御朱印】〜松原市・芦屋市〜

河内大塚山古墳データ


所在地:大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘
古墳名:河内大塚山古墳
宮内庁名:大塚陵墓参考地
墳形:前方後円墳
全長:335m
高さ:20m
築造時期:6世紀後半
推定埋葬者:雄略天皇、安閑天皇、欽明天皇、阿保親王