河内大塚山古墳 | 巨大古墳だけど誰のお墓?ぶら古墳 Vol.14 〜松原市 羽曳野市〜

大塚山古墳南河内にある古墳を紹介していく「南河内 ぶら古墳シリーズ」。第14回は松原市と羽曳野市にまたがるに「河内大塚山古墳」です。古市古墳群に入っているのかいないのかよくわからない微妙なポジションの古墳です。



河内大塚山古墳について

前方後円墳築造時期は6世紀後半、墳丘の長さは335m、高さは20mの前方後円墳。大阪みどりの百選にも選ばれており、周濠には豊かな水に満たされ、墳丘とのバランスは見応えがあります。

大塚山古墳

古墳の規模では全国で5番目のに大きく、近畿において最後の巨大前方後円墳になります。これ以降も前方後円墳は築造されますが、河内大塚山古墳よりも巨大な前方後円墳は造られる事はありませんでした。

果たして誰が埋葬されているのか?

埋葬者は明らかになっていませんが、宮内庁は「雄略天皇」を推定埋葬者とし、河内大塚山古墳は「大塚陵墓参考地」として宮内庁の管理しています。

ちなみに宮内庁的には羽曳野市にある「島泉丸山古墳」を雄略天皇の陵と比定しています。

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地元では、松原市に縁のある阿保親王の墓という言い伝えもありり、阿保親王の子孫を称する毛利藩より家老の村田清風が実際に調査の為訪れた記録も残っています。

ただ、阿保親王が亡くなった9世紀初めには巨大古墳を造る風習はなく、阿保親王の地位と古墳の規模も釣り合わない為、可能性は低いと思われます。

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河内大塚山古墳に雄略天皇が埋葬されているかは分かりませんが、この規模だと大王クラスの可能性が考えられています。雄略天皇ほど権力を有した天皇ならこれほど大規模な古墳でもおかしくありません。

しかし雄略天皇の時代と古墳築造時期が合わず、時期的に言えば、安閑天皇、欽明天皇と言う説もあります。

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しかし結局のところは誰が埋葬されているのかというのは分からないのが実情のようです。

丹下城と丹下氏

大塚山古墳
程良い高さの台地と周濠を持っていると、もれなく例のものに改造されてしまうのが、古墳の宿命なのかもしれません。

河内大塚山古墳も例に漏れず「丹下城」と言う城に改造されていました。丹下城を築城した丹下氏は松原市東部の西大塚から高鷲付近を支配していた土豪です。丹下氏はこの地に土着した鎌倉時代に丹下城を築城。

南北朝時代、丹下氏は北朝方(足利側)に属します。1337年3月に丹下三郎入道西念と南朝の岸和田治が野中寺付近で激突。敗れた丹下三郎入道西念は丹下城に逃げ込みましたが、城の周辺が焼き払われたとの記録が残っています。

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南北朝の争いを乗り切ったりを丹下氏は、戦国時代に入ると河内守護である尾州畠山家に仕えています。丹下氏の当主であった丹下盛賢は畠山稙長に仕え、守護代である遊佐長教によって畠山稙長が紀伊に追放された際も同行しています。




畠山稙長が亡くなった際に丹下盛賢は殉死を遂げ、丹下氏断絶の危機を迎えます。しかし断絶を憂いた遊佐長教は、別の家から丹下氏を継がせ存続を図っています。

1574年、織田信長の高屋城攻めにより河内が平定されると、河内国城郭破却令により丹下城は廃城。

その後、丹下氏は帰農し吉村と名乗ります。吉村家は羽曳野、松原、八尾、大阪市一帯18もの村々を管轄する大庄屋として存続。現在も吉村家の屋敷は国の重要文化財として指定されています。

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現在の河内大塚山古墳

大塚山古墳丹下城が廃城された後、河内大塚山古墳には前方部に大塚村、後円部に天満宮ができるなど集落が形成されていました。

しかし1925年に宮内庁より陵墓参考地に指定されたため大塚村は古墳外に移っています。2010年に行われた調査では、村の跡が確認されています。

記録によると江戸時代に「磨戸石」とよばれる横穴式石室の一部が後円部に残っていたと伝わっています。現在でも「ごぼ石」とよばれる横穴式石室の天井石と思われる巨石が残っているようです。

あくまでも「陵墓参考地」であるため、遥拝所は存在していません。古墳北西部に古墳とつながる橋があり、河内大塚古墳に関する案内板が存在します。これほど巨大で見ごたえがある古墳ですが、埋葬者に関する資料もなくとてもミステリアスな古墳となっています。本当は誰が埋葬されているんでしょうね?

アクセス

最寄り駅は近鉄南大阪線「恵我ノ荘駅」。駅から西へ10分ほど歩くと河内大塚山古墳が見えてきます。古墳の北半分は堀沿いに歩道が整備されており、鑑賞ポイントは多く存在します。南半分は住宅地に囲まれているため、間近で見ることはできません。

大塚山古墳
恵我ノ荘駅から河内大塚古墳を見学し、そのまま更に西へ向かうと、反正天皇の都が存在したと言われる「柴籬神社」があるので、併せて見ておきたいところです。

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周辺に駐車スペースはありません。



河内大塚山古墳データ

古   墳:河内大塚山古墳
宮内庁名称:大塚陵墓参考地
墳   形:前方後円墳
築造の時期:6世紀後半
所 在 地:大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘
全   長:335m
高   さ:20m
推定埋葬者:雄略天皇、安閑天皇、欽明天皇、阿保親王