南河内の神社を紹介する「となりの鎮守様」シリーズ。今回は、藤井寺市惣社にある「志貴県主神社(しきあがたぬしじんじゃ)」です。今は無人の小さな神社ですが、かつては河内国の「総社」として創建された由緒ある神社です。
志貴県主神社を創建したのは、文字通り「志貴県主(しきあがたぬし)」とされていますが、古事記には雄略天皇と志貴県主のユニークな逸話が残されています。その逸話とはどのような話なのか?今回は、藤井寺市惣社にある「志貴県主神社」を紹介します。
志貴県主神社の歴史
志貴県主神社の詳しい創建は、わかっていません。ただ、927年に編纂された延喜式神名帳に記載された式内社であることから、これ以前には存在していたようです。志貴県主神社の近くにある「国府遺跡(こう遺跡)」からは、旧石器時代の遺物が見つかっており、古くから人々が暮らしていたようです。また奈良時代には河内国の「国府」が置かれ、河内国の中心地として栄えていました。
この一帯は「志貴の県(しきのあがた)」と呼ばれる天皇の直轄地で、管理していたのが「志貴県主」という一族です。志貴県主は、神武天皇の長男である「神八井耳命(かんやいみみのみこと)」を先祖に持つ、皇族に類する一族でした。志貴県主は、祖先である神八井耳命を祭るために、志貴県主神社を創建したと考えられています。
2861社ある式内社は、格式により式内大社と式内小社に分かれています。志貴県主神社は「式内大社」に類しており、月次祭(つきなみのまつり)や新嘗祭(にいなめさい)に幣帛を受ける格の高い神社でした。中世に入ると、楠木正成の祈願所として繁栄。しかし楠木家が衰退すると同じくして、志貴県主神社も衰退。以後、南河内に押し寄せる兵乱により荒廃しました。
江戸時代には再建されていたようで、1658年に奉納された灯篭が境内に残されています。1872年に村社に列し、現在に至ります。
志貴県主と雄略天皇
志貴県主神社を創建したとされる「志貴県主」は、古事記に登場します。古事記によると、雄略天皇は若日下部王を妻に迎えるため、大和から日下山(東大阪付近?)を経て、河内へ向かっていました。日下山から国を眺めていると、屋根に「堅魚木(かつおぎ)」を備えた家を発見。この時代、堅魚木を持てるのは、皇族の家などに限られていました。
家来から、家の持ち主が「志貴県主」と聞いた雄略天皇は、「豪族の身分で、天皇の家に似せるとは何事か!」と激怒。家来を遣わし、家を焼き払おうとします。驚いた志貴県主は、雄略天皇のもとに駆けつけて平謝り。貢ぎ物を献上することでようやく許されたという話が残されています。
雄略天皇は、各地の豪族を力で抑えつけ天皇家の権威を高めた人物。そんな気性のため、血の気のが多いエピソードも数多く知られていました。雄略天皇が激怒を知り、名門の志貴県主といえど、生きた心地がしなかったのでしょう。
現在の志貴県主神社
志貴県主神社は、藤井寺市の「惣社」と呼ばれる地区に存在します。地名からもわかるように、この地には「総社」が置かれていました。かつて律令制のもとでは、国司が赴任地に到着すると、その地で定められた神社を順に参拝する習わしがありました。
後に、それが煩わしいということで平安時代にルールを変更。国府の近くに「総社」を建立し参拝することで、他の神社への参拝を省略しました。その総社が、志貴県主神社とされています。ただ、志貴県主神社とは別に総社が存在したとも記録にあり、実際どうだったのかは不明な点もあります。
神社の入口に、赤い一の鳥居が建てられています。南河内では神社の一の鳥居は、石や木で作られた神社が多いので、少し珍しいかもしれません。
鳥居脇には、志貴県主神社の縁起が彫られた石碑と「河内国府跡」の石碑が存在。総社は、国府の近くにあったということですので、志貴県主神社の近くに国府が存在したと思われます。
鳥居の先は、木々に挟まれた美しい参道。短い参道ですが、その間に「狛犬」「灯篭」「狛犬」が順番に置かれています。
比較的新しい雰囲気の志貴県主神社の拝殿。本殿は見えませんが、1872年に再建された入母屋造とのこと。社殿の土台には、衣縫寺廃寺の礎石が転用されているそうです。
拝殿の隣には小さな摂社が置かれています。式下大明神と書かれていますが、祭神は不明。
社務所はなく無人の神社のため、お守りや御朱印は扱っておりません。敷地は広くありませんが、非常に美しく保たれており、地元の人に大切にされていると感じる神社です。
志貴県主神社の存在するエリアは、国府が置かれていたこともあり、多くの遺跡が見つかっています。かつて周辺には、いくつもの豪族が氏寺を建立していました。殆どが消滅しましたが、衣縫廃寺、船橋廃寺、拝志廃寺などが周辺から見つかっています。
当時は神社も氏寺も、豪族が祖先を祭る場所でした。ただ豪族が衰えると、多くの氏寺は荒廃します。しかし志貴県主が歴史の表舞台から消えた後も、志貴県主神社は存続しています。
志貴県主が京へ本拠地を移した後は、違う神が祭られていたようで、近世には春日神社と称し春日神が祭られていました。神道は多くの神様が存在するため、その時代に合わせ柔軟に生き残ったのかもしれません。
志貴県主神社データ
神社名 | 志貴県主神社 |
住所 | 大阪府藤井寺市惣社1丁目6-23 |
祭神 | 神八井耳命 |
配神 | 天照大神、春日大神、武甕槌命、比咩大神、天児屋命、住吉三柱神、神功皇后 |
摂社 | 式下大神 |
旧社格 | 村社 |
式内社 | 式内大社 |
祭礼 | 10月9日 |
参考資料 | ・大阪府神社名鑑 ・文化財シリーズ・藤井寺市の神社 |
アクセスと駐車場
・公共交通機関
近鉄南大阪線「土師ノ里駅」下車。駅前を走る国道旧170号線を北に直進。しばらく歩き「惣社南交差点」を東へ。直進すると3又の交差点があり北へ。そのまま直進した先に志貴県主神社が存在します。土師ノ里駅より、徒歩約15分。
・自動車
志貴県主神社に駐車場はありません。允恭天皇陵の遥拝所近くにある2ヶ所のコインパーキングが、最寄りの駐車場になります。
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