南河内の神社を紹介する「となりの鎮守様」シリーズ。今回は、富田林市西板持にある「板茂神社(いたもちじんじゃ)」です。板茂神社は不明な点が多い神社ですが、一説によると「板持連」と関りが指摘されています。なじみの薄い板持連という一族ですが、歴史上、興味深い出来事にかかわっていました。それはどのような出来事なのか?今回は、富田林市西板持にある「板茂神社」と「板持連」を紹介します。
板持茂神社とは
板茂神社は、古くから板持字尾ノ上に鎮座していたと伝わるのみで、詳しい歴史は分かっていません。明治時代に村社に列し、1907年(明治40年)に千早赤阪村にある建水分神社に合祀され廃社。しかし1950年(昭和50年)に氏子達の間で争い事が起こり、旧社地に復社しています。板茂神社は、無人の神社のため、現在でも問い合わせ先は建水分神社となります。
板持神社の祭神は、建水分神社と同じ「天御中主神」「天水分神」「罔象女神」「国水分神」「瀬織津媛神」。ただ大阪府神社名鑑には「素盞鳴命」「大己貴命」「応神天皇」「安閑天皇」となっており、合祀前は上記を祭神としていたようです。
素戔嗚尊=牛頭天王
応神天皇=八幡神
安閑天皇=蔵王権現
大己貴命=大国主命
と思われます。中世らしい祭神といえますが、これらを一度に祭る神社は、珍しいかもしれません。近世の記録も少ないですが、それ以前の記録がほとんどなく、謎の多い神社といえます。
板持連ゆかりの神社?
板茂神社の近くには、弥生時代から中世にかけての遺構が残る「西板持遺跡」が存在。この地には古くから人々が暮らしていたことが分かっています。
また、西板持遺跡の東側丘陵には「板持古墳群」と呼ばれる小型の古墳群が存在していました。板持古墳群は「板持丸山古墳」「板持古墳」「板持 1~ 4号墳」で構成された古墳群で、西板持遺跡を見下ろすように築造。
5世紀~6世紀にかけて築造されており、ヤマト王権と関係を持つ豪族がこの辺りを支配していたようです。古墳を築造した豪族は不明ですが「板持連(いたもちむらじ)」との関係性も考えられます。
新撰姓氏録によると、板持連は中国系渡来人「楊雍」の末裔を称していました。板持連は、主に奈良時代に登場する貴族で、板持一帯を本貫地としていたようです。
板持連はいくつかの記録に登場しますが、その中でも興味深いエピソードを2つ紹介。
板持連安麻呂
~令和の由来とのつながり~
「令和」の由来となったことで知られる「万葉集・梅花の歌三十二首」に板持連安麻呂が登場します。730年、大宰府近くの大伴旅人邸で行われた宴会にて、梅花を題材にした32首歌われました。この32首が万葉集に集録され「万葉集・梅花の歌三十二首」として残されています。
梅花の歌三十二首の序文に記された
初春令月氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香
が令和の由来として一躍有名となりました。
この中で、板持連安麻呂は
春なれば 宜も咲きたる梅の
花君を思ふと 夜眠も寝なくに
という歌を詠んでいます。詠み人は「壱岐守板氏安麿」となっており、壱岐の国司であったことがわかります。板持連は、壱岐国を本貫とする「伊吉氏(いきうじ)」と祖先を同じとする同族であり、壱岐国にも関わりがあったのかもしれません。
他に、現在の板持地区近くには「北大伴町」「南大伴町」があり、この辺りを大伴氏が治めていたとのこと。立地的に、大伴氏ともつながりがあったとも考えられます。
ちなみに5年後の735年、板持連安麿は殺人事件が起こった際、その一族から訴訟があったにもかかわらず受理しなかったとして罪に問われたと続日本紀に記されています。果たして、その後はどうなったのか…?
板持鎌束~渤海航路殺人事件~
続日本紀に「板持鎌束(いたもちかまそく)」と言う人物が登場。板持鎌束は、当時の音楽界において「笛」の第一人者として知られていました。762年に板持鎌束は、渤海国の使者である王新福を帰国させる命を受け、送り届けることになりました。無事に王新福を送り届けた板持鎌束は、763年に渤海で音楽を学んでいた高内弓とその家族らを連れて帰国に就きます。
しかし、途中暴風に遭い、舵取りと水夫が波にさらわれて遭難。そこで板持鎌足は「異国の婦女や僧が乗っているからだ!」と主張します。板持鎌束は、水夫に銘じて高内弓の妻子、乳母、僧らを海に投げ入れてしまいました。
それにもかかわらず暴風雨は一向におさまらず、船は10日ほど海を漂流し、ようやく隠岐国に到着。帰国できたものの、さすがに高内弓の家族を海に投げ入れたことは問題視され処罰されることに。本来は斬刑に処されるところを、獄にいれられることで許され、のちに近江国に移されています。
海の神様の怒りを静めるために、人柱が捧げられる逸話はありますが、奈良時代においても深く信じられていたようです。板持連にまつわるエピソードを2つ書きましたが、板茂神社は、板持連が祖神を祭るために創建したという可能性もあります。ただ927年に編纂された延喜式神名帳に板茂神社の名前は無く、真偽のほどは分かりません。
現在の板茂神社
板茂神社には、駐車場がありません。今回は、近くにある「とんかつの山田屋」さんでお弁当を注文し、待ち時間に寄ってきました。板茂神社は、静かな住宅街のなかにひっそりと存在。
境内手前には「紀元二千六百年記…」と刻まれた石碑が置かれていますが、何を意味するかは不明。
西暦で表すと1940年にあたりますが、板茂神社がこの地に復社したのが1950年なので、それ以前に置かれた石碑と思われます。板茂神社の正面にある鳥居と社名碑。板茂神社は式内社ではありませんが、なぜか「式内」と刻まれています。
考えられるとすれば合祀されていた建水分神社が式内社という点です。つまり祭神も一緒に分離して復社したので、こちらも式内社である・・・と考えたのでしょうか?実際のところはよくわかりません。それにしてもなぜ社名は「板持」ではなく「板茂」なんでしょうか…漢字は異なりますが読み方は同じという…
鳥居手前にある手水舎。屋根付きで、なおかつ水盤が二つもあります。
小さい境内ながらも、木々に囲まれた美しい参道が拝殿まで続いています。
境内北側にある常夜灯。なぜか祠に納められています。境内を掃除していた地元の方に尋ねると、詳細は不明ですがどこからか移設されてきたとのこと。あとで調べてみると、1829年(文政12年)に建てられた伊勢灯篭のようです。
拝殿隣にある摂社「春駒大明神」。社はなく石碑を祭っています。調べてみましたが、由緒も祭神も分かりませんでした。
春駒大明神の裏側にある小さな祠。丸い石が数多く詰め込まれており、賽の神ではないかと思われます。
こちらが拝殿になります。訪れたときは、拝殿の戸が開いており、中に掛けられていた拝殿の写真には「平成13年7月15日に拝殿修復」と記載されていました。
板茂神社の近世の動きをみると
・旧祭神は、素戔嗚尊、応神天皇、安閑天皇、大己貴命、と主役クラスの神様が勢ぞろい
・合祀されるも、氏子間で争いがあり復社
・復社したら旧祭神をやめて建水分神社の祭神に総入れ替え
・謎の「式内」主張
一見、普通の神社にみえる板茂神社ですが、近世の動きだけを見るとエッジが効いた、面白い神社かもしれません。
板茂神社データ
神社名 | 板茂神社 |
住所 | 大阪府富田林市西板持町8丁目7−39 |
祭神 | 天御中主神、天水分神、罔象女神、国水分神、瀬織津媛神 |
摂社 | 春駒大明神・賽の神 |
旧社格 | 村社 |
式内社 | なし |
祭礼 | |
参考資料 | ・大阪府神社名鑑 ・富田林市板持古墳群調査概報 |
アクセスと駐車場
・公共交通機関
近鉄南大阪線「富田林駅」下車。金剛バス「東條線」もしくは「富田林循環線」に乗り「西板持幼稚園前」下車後、徒歩約2分。
・自動車
板茂神社に駐車場はありません。また周辺にコインパーキングも存在しません。
周辺スポット
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板茂神社より徒歩20分ほどの場所にある神社。奈良時代の歌人、大伴黒主夫婦の墓と伝わる古墳です。
大伴黒主神社|祟りで村人を恐怖のどん底に?~富田林市~
・寛弘寺古墳公園
板茂神社より徒歩25分ほど場所にある古墳群。5基の古墳から構成される古墳群で、現在は公園として整備されています。
・寺内町
板茂神社より徒歩15分ほどの場所にあるスポット。江戸時代の古い街並みを残す地区で、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。